再開 第10話
ご覧いただきありがとうございます。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
とうとう待ちに待った満月の夜が訪れた。
セレナは今すぐにでも、飛んでいきたい気持ちを抑えながら、身支度をしていた。
名前を彫った貝のブレスレットを巻き付けカチッと留め具をはめる。
ほんのり甘い香りをそっと纏うと、青年の元へと向かった。
満月とはいえ、空に雲が出て時折り満月を隠していた。
ポロン、ポロン、ポロンー。
あの音が聞こえる。
セレナはいつもの岩場に身を潜めながら青年の演奏を聞いていた。
音はどこか悲しげで、ぼんやりとしていた。
いつもと違う様子にセレナは歌い出すことができないでいた。
しばらくすると、演奏が止み青年と誰かが話す声が聞こえてきた。
「お前、もういい加減にしろ!工房を放って!」
「やめて、兄さん!」
「ハープはもういいだろ!」
青年の手からライアーハープを奪うと、兄はそのままデッキの端まで歩み寄り、ライアーハープを海に投げ捨てその場を去ってしまった。
海に投げ込まれたのを目撃したセレナは間一髪、海に落ちる寸前でライアーハープをキャッチし、尾鰭で軽く水面を叩いた。
手に触れた瞬間、いくつもの弦が一度に震え、不揃いに重なり合うように音がこぼれた。
——それでも、その中に確かに、あの音が混ざっている。
セレナは息を呑んだ。
——間違いない。
すぐさま返そうと試みるが、デッキから海面までの高さがあるため届かない。
青年がデッキから顔を出すのを岩場から待つが一向に顔を出さない。
しばらく待ったが、青年が姿を現すことはなかった。
ハープに息を吹きかけ、水に濡れないよう保護すると、セレナはハープを抱きしめるようにして、静かにその場を離れた。
***
夜風がそっと青年の髪を撫でる。
一番大切にしていたハープを奪われ、海に投げ込まれたショックから、その場を動くことができなかった。
それは祖父が最後まで青年に触れさせなかった、ただ一つのハープだった。
呆然と立ち尽くしたまま、
何も音は、残っていなかった。
青年は静かに立ち上がると、そっと家の中へと戻っていった。
***
穏やかな凪の海の中で、
セレナはハープを抱えたまま考えていた。
どうやって返そう…。
浜辺か陸に近づいてそっと置くのはどうか?
いや、違う人が持ち帰ったり、鳥たちにイタズラされるかもしれない…。
いくつもの考えが浮かんでは消えていく。
満月の夜、初めて見た青年の顔。
その腕には、大切そうに抱えられたハープがあった。
——きっと大切なものなんだ。早く返さないと。
セレナは月の満ち欠けに関係なく、デッキ近くの岩場で待つことにした。
——このハープを、あの人に返すために。
下弦の月の下、じっとデッキを見つめるセレナ。
波の音、街のざわめき。
青年の姿はなかった。
新月、空に月明かりはない。
静かな波の音、遠くからイルカの鳴き声が聞こえる。
上弦の月
その細い光が、どこか胸の奥に触れた。
セレナはそっとため息をついた。
月が再び満ちる頃——
——あの人は、来るだろうか。
***
ご飯も喉を通らず、青年は少し痩せていた。
それでも、何も言わなかった。
あの日以来、どこか上の空だった。
残っているライアーハープに手を伸ばしても、心はそこになかった。
すぐに手を止めて戻してしまう。
工房も訪れはするが、手元は狂い、些細なミスが増えていった。
工房に訪れる回数も次第に減り
せめて破片だけでもと、
ハープの残骸が流れ着いていないか、浜辺を歩いた。
昼下がりの浜辺には、穏やかな波の音が広がっていた。
靴を脱ぎ、素足のまま。
足裏に伝わる感触を確かめるように、一歩ずつ進む。
さらりとした砂の中に、ときおり硬いものが混じる。
そのたびに足を止め、しゃがみ込み、手を伸ばした。
指先に触れるのは、小さな貝殻や、角の取れた石、流木の欠片——
どれも違う。
わかっている。
それでも、確かめずにはいられなかった。
波が寄せては返す。
その境目をなぞるように、手を動かしていく。
冷たい水が指先に触れ、すぐに引いていく。
何も、ない。
青年は立ち上がり、また歩き出した。
同じ場所を、何度も行き来しながら。
——あるはずがない。
そう思いながらも、足は止まらなかった。
指先が何かに触れるたびに、
ほんの一瞬だけ、胸の奥が揺れる。
違うとわかると、静かに砂へ戻す。
その繰り返しだった。
やがて、潮の匂いを含んだ風が少しだけ強くなる。
青年は顔を上げた。
しばらくその場に立ち尽くし、
何も見えないまま、ただ海の気配を感じていた。
だが、それらしきものは何も見つからなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
引き続きお楽しみいただけたら嬉しいです。




