第五章 16 悪魔の子―①
転移した先の奈落の谷は、震えるほど寒かった。もう日も暮れかかっているし、獣人界の北端にあるんだから寒いだろうと予想はしていたけど、それでも寒い。コートの襟をぎゅっと締める。
ナオはそんな凍てつくような空気を大きく吸い込むと、わたし達を振り返った。
「案内するからついてきて。そんなに険しい道じゃないと思うけど、私が住んでいた頃とは違ってるだろうから。それぞれ足元に気をつけて」
「了解」
ナオを先頭に、わたし達は歩き始めた。ナオは迷いのない足取りで道とも呼べないような道を進んでいく。
「昔、よく家族で行ったのよ。母さんと父さんとセイと、四人で。父さんがいなくなって、母さんが体調を崩してからは行けなくなったけど、案外覚えてるものね」
沈黙を無理やり破るように、ナオが妙にはきはきと話し始めた。ナオが自分の話をするのは珍しい気がして、わたしは足元から視線を上げる。
「花畑まで特に面白いものもないし、この機会に話しておこうと思ってるの。私とセイの……ううん、違うわね。私が、妖精図書館に来るまでの話を」
バキン、と踏まれた枝が音を立てて折れた。ようやく、ナオがわたし達を振り返る。
「まあ、簡単に言うとね。私、悪魔の子なのよ」
そう言ったナオは、何だか諦めたように、寂しげに笑っていた。
悪魔の子。覚えてる。アラスターから『一隻眼』をコピーさせてもらったときに聞こえてきた悍ましい声が言っていた。「俺のところに来ないか? 悪魔の子」と。そして、いつの日だったかセイに教えてもらった――。
後ろでリンとユーリがあっと声を揃えた。
「悪魔の子って、二百年前に封印されたっていう……」
――獣人界で首長たちをまとめて封印した、二百年前の罪人。
完全な予想外ってわけでもないけど、だからといって混乱しないわけじゃない。訳がわからず足を止めた私たちを見て、ナオはおかしそうに少しだけ口角を上げた。
「にわかには信じられないかもしれないけど、それで合ってるわよ。流石はリンね。あんまり面白い話じゃないと思うけど、あんたたちには話しておかないといけないと思って」
聞いてくれる? と、ナオは小さく首を傾げた。
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物心ついた時にはもう、私は奈落の谷で暮らしていた。異種族が結ばれることは禁忌とされている。だから私の両親――エルフと魔法使い同士の結婚など祝福されるはずもなく、きっと追われるようにしてこの谷へやってきたのだろう。そうわかるようになったのは随分後だけど、周りの人たちを見て、幼心にも自分は少し違うのだと理解はしていた。
ボロボロの小さな家で、家族四人身を寄せ合って。決して豊かではなかったし、むしろ一日を生き抜くことすら必死だったけれど、それでも私は幸せだった。理由なんて単純だ。私には大切な家族がいたから。
だから、私の幸せが崩れ始めたのは、きっとあの日だったのだと思う。
「明日、町へ行ってくるよ」
ある夜、父さんが何の前触れもなくそう言った。
「このまま同じ生活を繰り返していても、貧しさからは抜け出せない。こんなところで足を止めていてはいけないんだ」
父はそう語ったけれど、私は賛成する気にはならなかった。当時8歳ほどだった私ですらわかるほど、父の見通しは甘かった。
「いやだ。行っちゃだめよ。父さん、私たちにはここから出るなって言うじゃない。危ないから外には行っちゃいけないって」
奈落の谷に住んでいるのは、住む場所を追われた者たちだ。そんな存在が普通の獣人たちが住んでいる町に降りたところで、一体何が出来るというのだろう? 話なんて聞いてもらえるはずがない。殺されたっておかしくない。そんなこと、私にさえわかっていた。
それなのに。
「母さんとも話し合って決めたことなんだよ。ナオ、セイ。わかってくれるね?」
父さんには、私の話を聞くつもりはなかった。
私の隣にいるセイは、話の意味がよくわかっていない様子だった。私だってわからなかった。父さんも母さんも賢い人だと思っていたのに。どうしてそんな無茶なことをしようとするのだろう。
追及するつもりで母さんを見ると、母さんは眉を下げて微笑んだ。それで、私は父を引き留めることを諦めた。何を言っても無駄だと悟った。
必ず戻ってくるよ。
そう言って家を出た父は、何週間経っても帰ってくることはなく、母さんは泣きながら私たちを抱きしめた。
「ごめんね。ごめんね。辛い思いをさせて、ごめんね……」
それから母さんは、より一層働くようになった。おかげで私とセイがひもじい思いをすることはなかった(とは言っても、常にお腹は空かせていた)けれど、母さんは日に日にやつれていった。
そして父さんが家を出てから数か月後、母さんはとうとう病気で倒れてしまった。
後になって調べてみれば、母さんのかかった病気は大したものではなく、清潔にして、しっかりと栄養を摂っていれば治るものだったらしい。でも、当時の私たちにはそれが何よりも難しかった。
母さんが倒れた後、生きていくために私は家の外に出た。少しでも働いて食べ物を手に入れないと、家族みんな死んでしまう。父さんがいない今、私がセイと母さんを守らないと。そんな切羽詰まった使命感を胸に家を飛び出した。
本当に必死だった。必死でこびへつらって、口先だけの言葉を並べて、人に取り入ることを覚えた。作り笑いを浮かべた貧相なエルフの子供を哀れに思ったのだろうか。何人かが、私に頼みごとがあると声をかけてくれるようになった。頼まれごとをこなすと貰えるほんの僅かな食べ物で、私たちは何とか命を繋ぎ止めていた。
「ごめんね、ナオ」
母さんは何度も何度も私に謝った。そしてその度に、私は首を振って微笑んだ。
「気にしないで。私のことはいいから、母さんは早く病気を治すことだけ考えて」
その頃にはもう、何が自分なのかがわからなくなっていたような気がする。何を言えば気に入ってもらえるかとか、どんな顔をしていればご飯がもらえるかとか、言ってはいけないことは何だろうとか。頭にあるのはそれだけで、本当に自分がしたいことはとっくの昔に見失ってしまっていた。
そんな風に私が必死になって働いても、母さんの体調が良くなることはなく、むしろどんどん悪化していった。そして、父さんが家を出て一年ほど経った冬のある朝、
「ねえ、ナオ。ツキシズクの花を摘んできてくれる?」
突然、母さんがそんなことを言った。私は聞き覚えのない名前に首を傾げた。
「ツキシズク?」
「そう。覚えてない? 前によく行った花畑。あそこに咲いてるのがツキシズクの花よ」
「ああ、あれ」
それなら場所がわかる。何度も何度も行った場所だから。
私はすぐに身支度を整えて家を出た。母さんが病気にかかってから、初めて聞いた頼み事だ。ずっと家で苦しんでいる母さんのためなら、何でもしようと心に決めていた。
久しぶりだったから花畑まで辿り着けるか不安だったけれど、意外と道を覚えているものだった。冷たい北風が吹きつけてきて、体が震える。でもきっとその震えは寒さのせいだけじゃなかった。
前はずっと父さんが先頭を歩いてくれたとか、母さんが上着を貸してくれたとか、セイと手を繋いで歩いたとか、そんな幸せな日々を思い出してしまって。それがいつの間にか遠ざかってしまったことが悲しくて、心細くて、震えが止まらなかった。
ひとりぼっちの花畑への道のりは記憶よりもずっと長くて、でもようやく見つけたツキシズクの花は記憶よりもずっとずっと綺麗だった。花を摘みながら私は決意した。
今度はまた家族みんなで来よう。摘んだ花よりも実際にここに来て見た方が綺麗だ。幸せだったあの頃みたいに、この花畑で家族みんなで笑いあいたい。そのためにも、私が頑張ろう。
足元の小さな黄色い花たちが、私を元気づけるように揺れている気がした。私は急いできた道を引き返した。
「ただいま!」
幼い決意とツキシズクの花を抱えて家に帰ると、母の手を握って呆然としているセイがいた。私が帰ったことにも気づいていないらしい。不思議に思った私は、その小さな背中に声をかけた。
「セイ? どうしたの?」
ゆっくりと、セイが振り返った。呆然としていたセイの顔が、私を見た瞬間にくしゃりと歪む。お姉ちゃん、と呼んだ声は、風の音にもかき消されてしまいそうなほどか弱かったけど。でも。
「お母さんが、死んじゃった……」
涙で顔をべしょべしょにした妹のその言葉だけは、はっきりと聞き取れてしまって。手から零れ落ちた花の黄色の中に、私は崩れ落ちた。




