第四章 22 本当の名前は
「何を、言っているの?」
わたしに問うたその声は、誰からもわかるほどに震えていた。少女は俯いて、小さく笑ったようだった。無理に頬を歪めるように。
「私はノーランよ。本当の名前って、何を言っているの? この名前は、私が唯一覚えていた……」
「唯一覚えているからって、それがお前の名前だとは限らないだろ」
ユーリが、少女の言葉をバッサリと斬り捨てる。少女は俯いたまま、顔を上げない。隣のセイが、不安そうな顔をしてわたしの服の裾を引っ張った。
その力に気づかないふりをして、わたしは少女に笑いかける。
「さっき、わたし達はある目的でここに来たって言いましたよね。その目的っていうのは、魔法界のマリー姫を、あなたを、救出することなんです」
少女はゆっくりと顔を上げた。今にも泣きだしそうな顔だ。
「救出?」
わたしは頷く。
「ここより良いところなんて、ないでしょう。ここは、誰も傷つくことのない場所なの。何も考えずに笑っていられる場所なの。救出、なんて、聞こえがいい言葉で誤魔化さないで。あなたたちは、この優しい世界を壊そうとしているの!」
少女が、震える声を無理やり張り上げるようにして叫んだ。セイがパッと駆けだして、少女の手を取る。
「本当にここが優しいだけの世界だと思ってるのか? そんなわけないだろ。そのことに気が付かないほど、馬鹿じゃないだろ」
「ユーリ……っ」
「ここは偽物の世界だよ。誰も傷つかない? そうかもしれない。ここには誰もいないもんな。全部作り物だ。その中で、唯一生きているお前だけが傷つき続けてるんだよ」
少女の瞳が悲痛に揺らぐ。セイは少女の手を握ったまま、口を引き結んでユーリを見ていた。
ユーリは、淡々と現実を突きつける。セイは隣でそっと寄り添っている。多分二人は全く別の種類の優しさを持っていて、踏み切れないわたしがこの場で一番優しくない。
「優しいんですね」と呟いた。ユーリを見つめていた少女が、わたしへと視線を向ける。
「お城の人から聞きましたよ。国の人たちを助けるために、魔術師の人たちと前線に出ていったって。もう、目の前で誰も傷ついてほしくないんですよね。だから、こうしてここにいるんですよね」
知ったかぶりだ。でも、なんとなく、ほんの少しだけ、わかる。
魔法界に来てすぐ恐魔獣に襲われて、一人だけ目を覚ました時、怖くて怖くて、もう逃げ出してしまおうかと思った。みんながまた傷つくことが、怖かった。
「でも、あなたが一番わかっているんじゃないですか。自分がここに居てはいけないことに。魔法界の人々のために、命の危険も顧みず飛び出していった人が、そんな簡単に人々を見捨てられるはずがないんです」
「……私は」
「マリー様」
少女が強く握りしめた手に、セイが優しく自分の手を重ねた。驚いたようにセイを見る少女に、セイはそっと微笑みかける。その微笑は、いつもの幼いセイの様子とは結び付かないほど落ち着いていた。
「あなたを待っている人が、たくさんいるんです。あたしたちもそうです。誰も、マリー様を責めたりしません」
わたしの手に、何かが押し付けられた。見れば、ユーリが布に包んだ髪飾りをわたしに押し付けている。
「ありがと」と小さく笑って受け取る。セイと少女に気づかれないように、静かに囁く。
「『幻惑』」
この髪飾りを託してくれた、一兵士を思い出す。幼馴染として、違う視点からマリー姫のことを大切に思っていた人のことを。記憶を封じたマリー姫が、ただ一つだけ手放せなかった名前を持つ人を。
セイが少しだけこちらに視線を流して、それから少女に語り掛けた。
「ほら。あの男の人だって」
セイにつられるようにして視線を上げた少女が、はっと息を呑む。
「ノーラン」
名前を呼んだその声は、今までのものとは違って聞こえた。いや、きっと本当に違ったのだと思う。マリー姫の声だ。
今この少女が見ているのは、わたしが生み出した幻だ。ただの幻。実体なんてない。
随分と残酷なことをしたように思う。ここが正しいとは思っていないけど、多分他の面から見たら優
しさだってあったのだろう。
この世界で何も知らない少女として過ごそうとしていたマリー姫を、わたし達は無理やり引きずり出したのだ。
もう少し良い方法はなかったのか。きっとあったはずだ。わたしの頭がもう少し良ければ、マリー姫もセイもユーリも、傷つかないで平和にこの世界を終わらせられた。
でも、思いつかなかったんだから仕方ない。それに、後悔はあっても、自分がしたことを間違っていたとは思わない。わたしの目的のために、どうしても必要なことだった。
「ごめんなさい」
しばらくじっとノーランさんの幻を見ていた少女が、ふいに視線をわたしに向けた。わたしの目をまっすぐに見つめて、申し訳なさそうに微笑む。
「手間をかけさせてしまったわね。本当にごめんなさい。助けに来てくれて、本当にありがとう」
少女は胸に手を当てた。風が彼女の綺麗な金色の髪を揺らす。
「私の本当の名前は、マリー。魔法界の姫よ」
だいぶ雰囲気が変わるんだな、とぼんやり感じた。口調も、佇まいも、大きく変わったはずがないのに、まったく纏う空気が違う。
これが、何も持たない少女と国を背負うお姫様の違いなのか。
「マリー様」
わたしは彼女に向かって、手を差し出した。マリー姫は不思議そうに首を小さく傾げた。
少し考え込んでから、躊躇っているようにゆっくりと手を伸ばし、わたしの手を握る。
わたしはにっこりと笑って言った。
「これで友達です。……なんて言ったら、不敬かな。でも、本当の名前を教えてくれたら友達になる約束だったので」
口をぽかんと開けて、マリー姫がわたしを見つめている。ユーリとセイがわたしの隣に並んだ。
「わたしは、友達って、相手が大変な時に支えあえるような存在でもあると思っているんです」
目の前のお姫様は、まだわたしが何を言っているのかわかっていないようだった。その様子がおかしくて、かわいくて、わたしはつい笑う。
「友達になったからには、全身全霊をかけてあなたのことを支えるつもりですから。面倒くさーって思うかもしれませんが、覚悟しといてください」
「ちょっ、彩先輩良いところ取らないでください。マリー様、あたしたちもいますから!」
セイがわたしの腕にしがみついて抗議する。わたしはセイを振りほどこうとしながら「ごめん」と謝る。思ったより力が強くて、振りほどけない。
「――それなら」
マリー姫の声に、じゃれ合っていたわたしとセイはハッと顔を上げた。マリー姫はわたしの胸元にぴっと指を突きつける。
「友達になったのなら、敬語なんて使わないで。これも私との約束でしょう?」
「え、でも……」
「あら、彩もセイも、友達との約束を守ってくれないの?」
「ぐうっ」
痛いところを突かれた。さっきまでの「ノーランを名乗る記憶喪失の少女」にならタメ口も利けたんだけど、「魔法界のお姫様」となるとハードルが高い。気が引ける。でも、約束とかはわたしが言い出したことだしなあ……。
わたしはガシガシと頭を掻くと、覚悟を決めて頷いた。
「わかったよ、マリー」
「あたしのこれは個性なので……」
「ふふ、いいのよ。こうして軽口を叩けるような友達、欲しかったの」
マリーはタタタッと軽やかに駆けだして、くるりとこちらを振り返った。スカートが風に膨らむ。
「おーい」とリンの声が遠くから聞こえてきた。声の方を見れば、リンとナオが少し離れたところから手を振っている。
「じゃ、マリー。戻ろっか」
わたしはマリーに手を差し伸べる。マリーは微笑んで、わたしの手を取った。
「ええ」




