志真と悪夢の欠片たち 4
ドアは開かない。まだ火の回っていない方へ逃げるしかなかった。しかし、舞台の方にはあの化物がいる。
ここは神がいる場所らしいのに、どこにもそんなものはいないように思えた。
混乱する人々に押されながら、思うように進むことができない。ウィガー達とはぐれないようにするだけで精一杯だ。徐々に、舞台の方へ押し流されていると分かっていたが、どうしようもなかった。
強く押された老女が倒されるのを見て、志真は慌てて駆け寄った。助け起こそうとする間にも、容赦なく人が押し寄せてくる。手を踏まれ、背中を蹴られた。頭にくるが、立ち上がる方が先決だ。
白髪の老女は、志真の手に寄りかかりながら何とか立ち上がった。
「ありがとう、助かりました。……そちらの方も」
その言葉に振り返ると、アルジャラーを抱えたウィガーがいた。途中から、盾になってくれていたようだ。
「……ありがと。……皆、酷いよ」
「こんな時だ。仕方ないだろう」
皆、不安なのだ。
それは分かっている。
舞台の両脇には地下から伸びる階段があったが、片方はいつの間にか壊されている。残った方の階段の傍では死体がいくつも転がっていた。その上、侵入を防ぐ為か周りに高い柵があり、それを上らなければならない。
その場所は舞台から近く、そんな無謀な試みをしようとする者はいないようだ。
何せ舞台の上では、蜘蛛のように足を曲げた女が待ち構えている。
炎に追い詰められ、近づいてくる人間を不気味な顔で眺めていた化物は、ぐるぐると喉を鳴らした後動いた。無造作ににゅっと伸びてきた腕から逃げ惑う人々。腕は、押されて転んだ幼い少女の足を捕らえた。
は、と息を飲む。
助けなきゃ。そう思うのに足が動かない。
子どもが泣き叫んでいるのに。
小さく舌打ちをしたウィガーが、アルジャラーを降ろし志真へと押し付けた。
「ここにいろ」
そう短く告げて、人ごみを押しのけて走り出す。
「ウィガー!」
振り返らず進むウィガーは、真っ直ぐに舞台を目指していた。無理だ、間に合わない。それにあの化物に、ウィガーが勝てるのだろうか。
舞台の上では化物が、捕らえた子どもを引寄せてその体に食らいつこうとしている。
「やだ……やめて!」
その牙が少女の首元に届く寸前に、舞台に白い影が飛び乗った。同時に銀色に煌くものが風を切り、化物の首元に突き刺さる。侵入者を排除しようと伸びた女の白い腕を、白いコートの男が長い剣で防いだ。
褐色の肌に銀の髪をした男は身軽に動く。
次々と襲い掛かる化物のの手足を難なくよけ、その体に切り込む。ぐにゃりと歪む肉体は痛みを知らないのか、切り裂かれてもなお動きを止めない。その上、赤黒く開かれた傷跡も、あっという間に塞がってしまう。
銀髪の男が戦っている隙に、別の男が素早く舞台へ上がった。ウィガーだ。志真は小さく息を飲んだ。ウィガーは身を低くしながら、化物の傍に走りこむ。そして、その下に囚われている子どもの体に腕を回して引き抜いた。
すぐに気がついた化物が阻止しようとするが、銀髪の男の攻撃がそれを許さない。(強い)その男に僅かな希望を見出したのは、きっと志真だけでは無い筈だ。
ウィガーは子どもを舞台の下へ逃がした後、ゆっくりと化物の方へ向き直った。
(え?……なんで)
心臓が大きく嫌な音を立てる。
「ウィガー!」
呼んだ声は、他のざわめきに掻き消されてしまう。
充満した煙のせいで、視界が白く曇ってきていた。舞台の上のウィガーの姿がよく見えない。炎に追い詰められ、徐々に舞台へと人の輪が縮まっていく。
(どうなっちゃうの。ウィガーは……)
怖い。怖くて仕方が無い、でも。
「あ、アルジャラー、私、行かなきゃ。ウィガーを連れてきたのは私なんだ、だから」
行って連れて来ないと。ちゃんと一緒に帰らないと。
「私、行くよ。だから、ここで待ってて」
「シマ」
志真の腕の中で、半分ほど目を閉じていたアルジャラーが身じろぎをした。
「水、くるですのー」
どこか嬉しそうに、天井に向って指を伸ばす。
「へ?」
思わず上を向いた志真の頬に、ぽたりと冷たいものが当たった。
(え)
額に、手に、首に。次々と落ちてくるそれは、あっという間に雨に変わった。雨、だ。ここは室内なのに?中々の勢いで降る雨は正直ありがたいが、不思議でならない。ああ、もしかしたら、雨じゃなくてそういう装置なのだろうか。
煙を探知して水を撒く……名前は忘れたが、そんな機会なら志真の世界にもあった。
広範囲で降る雨は、あっという間に炎を飲み込んでいく。正に恵の雨だった。火が消えたことで、人々は再び舞台から離れる為に動き出した。我先にと逃げ出そうとする人々に押されながら、志真はその場に踏み止まる。ウィガーを置いてはいけなかった。
舞台を振り返った志真は、長い階段の途中で動く影を見つけた。人、それも同じ年くらいの黒髪の少女だ。いつの間にそこに入ったのか。そして何故下ではなく上へ向かっているのか。
彼女に気がつかなかった理由は、煙で視界が悪くなっていたのと、舞台の上に注目していた為だ。それから、彼女がまるで身を隠すように階段を這って上っているから。両側の手摺とその土台にうまい具合に隠れていたのだろう。
次に彼女の存在に気がついたのは、よりにもよって化物だった。銀髪の男に伸ばしていた腕を振り回して、細い階段に叩きつける。
「あっ…!」
大きく揺れた階段から、少女が転げ落ちそうになったのを見て、思わず声が出た。何とか踏み止まったが、女の腕は執拗に階段を狙う。
徐々に階段が傾き始めている。もう、見ていられなかった。アルジャラーの腕を離して、舞台へと駆け寄る。
「ウィガー!上に女の子がいる!」
その声が届いたのか、ウィガーは上を見た。そして、
「キクノ!」
驚愕したように声を上げた。
殆ど同時に、大きく振り上げた長い腕が、階段に決定的な一打を与える。折れ曲がり、傾いた階段から少女の小さな体が転がり落ちるのを見て、銀髪の男が地面を蹴った。何かを投げるような動きをした後、引っ張られるような勢いでぐんと高く飛ぶ。
手摺にぶつかり跳ね上がった少女の腕を掴み、引寄せながら辛うじてぶらさがる階段の残骸の上へ飛び乗った。
……良かった、と安堵している場合ではない。
「シマ!」
ウィガーの声にはっとする。目前に迫る白いものを見て、志真は咄嗟にその場を飛びのいた。ぴ、と頬を鋭い痛みが走る。何かが潰れるような嫌な音と、男の呻き声が聞こえた。
そちらに目を向けた志真の前にアルジャラーが立つ。
「こっちです」
いつになくはっきりとした口調で、志真の手を引く。同じように逃げ惑う人々に紛れて、志真は走った。外には出られない。だから、ずっとこうして走り回るしかない。
化物は舞台を下りていた。
止まない雨で溜まった水を掻き分けて、そうして逃げ惑う人々を無差別に襲っている。いつの間にか、白い指先が刃物のように尖っていた。切り裂き、突き刺す。恐ろしい光景に段々感覚が凍り付いていく。
まるで、鬼ごっこのようだった。
だがこれは遊びではない。掴まれば、死ぬのだ。苦しかった。いつ終わるのか、本当に終わりはあるのか。助かるのか。
(……モク)
弱気な心は、救いの手を期待する。また、来てくれるのでは無いかと。都合の良い助けを夢見てしまう。
志真はアルジャラーの手を強く握った。
そんなんじゃ、駄目だ。
こんな事にモクを巻き込むのは駄目だ。自分の事は、自分で……できなくてもせめて、思っていたい。
(ここにモクがいなくて良かった)
うん、そうだ。
(いなくて、良かったよ)
モクにこんな思いはして欲しくない。はぐれてしまったウィガーや、フィオーネ、それから伊吹。彼らの事が心配だった。きっと上手く逃げていると信じたい。そう信じて、志真も逃げる。
(アルジャラーを守らなきゃ)
見ないようにしていた化物の姿を探し、動きを追う。逃げる人々の動き、それから焼け焦げた椅子や、崩れた壁の残骸等をしっかり視界に収め、志真は逃げ場を探した。




