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志真と悪夢の欠片たち 5

 暫く無我夢中で逃げ回っていた。だから、一体いつあの化物の姿が見えなくなっていたのか、分からない。どこかに潜んでいるのか。こういう場合は助かった!と安心していたら、突然物陰から襲われちゃったりするのだ。安心できない。

 志真は辛うじて形を残し椅子の影に隠れながら、注意深く辺りを見渡した。荒い呼吸を抑えながら、べったりと額に滲んだ汗を拭う。ずっと走り回っていたせいで、体が熱くだるかった。もうちょっと運動して体力つけとくべきだったと思う。

 志真の肩にぐったりと凭れるアルジャラーは、既に息も絶え絶えだ。

「アルジャラー、大丈夫?」

 波打つ緑色の髪の隙間から、力の無い声が聞こえた。

「眠い、ですのー」

 駄目そうだ。

 志真も、このままじゃ体が持たない。今ならちょっとだけ休んでも大丈夫だろうか。周囲を見渡せば、同じように休んでいる人々の姿が目に入った。怯えるように身を寄せ合う人や、怪我をしたのか苦しげに呻いている人。そして。

「た、助けてくれ……」

 掠れるような声が瓦礫の下から聞こえた。乳白色の天井は、今やすっかり煤で汚れ黒くなっている。その為か、聖堂の中は薄暗かった。いつの間にか雨は止んでいたが、足元に溜まった水は足首の上まできている。

 崩れた壁の残骸が、椅子をいくつか無残に埋めていた。助けを呼ぶ呻き声は、その下から聞こえてくる。

「誰か、助けてくれ…、こ、子どもがいるんだ。せめて、こいつだけでも…」

 必死の声音に、心が揺さぶられる。

 だが、立ち上がるのには勇気がいった。

 普段だったら、すぐに駆けつける事ができたかもしれない。だが今は、異常な事件の最中だ。見えなくなった化物が、いつどこから襲い掛かってくるかも分からない。そんな状態で、無防備に動く事は怖かった。

 瓦礫の残骸をどかすには、時間がかかりそうだ。もしもその間に、あれが来たら?


(無理だよ。こっちが死んじゃう)


 助けを求める声が聞こえている筈の他の人々も、誰も動こうとしない。みんな、自分の事で精一杯なのだ。こんな時だから。

 怖いのだ。皆、怯えている。当たり前だ、誰だってあんな怖い思いをしたら。

「…………」

 ぐるぐると思い悩んだ末、志真は顔を上げた。

「アルジャラー」

「……行きますのー?」

「うん。だって、怖いけど」

 怖いから。思うのだ。あれが自分だったら、ウィガーやアルジャラーだったら。大きな緑色の瞳が志真を見上げ、ふわりと笑んだ。

「じゃー、私も行きますのー」

 思わず泣きそうになった。

 2人して舞台近くの瓦礫の山に駆けつける。下の方に大きな板のようなものが倒れており、その上に長い金属の棒のようなものが数本と、どこかの柱のような角材。更に欠けた石の残骸が散らばっている。金属の棒はぴくりとも動かず、比較的小さな瓦礫からどかすしかなかった。

「大丈夫、助ける、頑張って」

 必死で声を掛けながら、瓦礫をどかす。重いものは、アルジャラーと2人掛かりで。最初は化物の存在が気になっていたが、途中から夢中になって作業していた。

 瓦礫の下から聞こえてくる「すまない」「ありがとう」「苦しい」そんな途切れ途切れの言葉が、すこしずつ苦しげなものに変わっていくのに、胸が締め付けられる。「頑張って」を繰り返しながら、泣きたくなった。力には自信があったのに、全然足りない。悔しかった。

「せーのっ!」

 掛け声を掛けて、アルジャラーと大きな石の残骸を転がす。次の瓦礫へと手を伸ばした時、新たな手がそこに加わった。

 アルジャラーの緑の小さな手ではない。太く無骨な浅黒い大人の手の出現に、思わずびくっと手を引いてしまった。

「手伝おう」

 短く言ったのは、口ひげを生やした40代くらいの男だった。中肉中背、中々しっかりした体つきの厳しい顔をした男は、黙々と瓦礫を片付け始める。

「あ、ありがとう!」

 その手助けは心強い。その男を皮切りに、他の人々も動いた。次々と瓦礫がどかされていく。大きなものは、数人掛かりで。きっと、志真とアルジャラーだけでは無理だった。最後の大きな板を動かすと、椅子と椅子の間に横たわる男と、その腕に守られる5歳くらいの男の子の姿が現れた。

 子どもの方は気絶しているだけで、打撲と擦り傷くらいですんでいるようだ。重傷なのは男の方で、足に太い木の破片が突き刺さっており、自力で動く事はできないようだった。数人がかりで体を持ち上げ、壁際に移動させる。

 志真には怪我の治療はできない。

 若い女性と白髪の老人が手馴れた様子で処置を始めた。助かるのだろうか。青い顔で震えている男を心配な気持ちで見ていると、遠くから声がかかった。

「こっちにも手を貸してくれ」

 すぐにそちらの方へ向かい、救助に加わる。


 いたるところに怪我人がいた。倒れた人の中には、全く動かない者もいる。明らかに死んでいると分かる者も。そんな中で、必死で生きた人を探した。救助活動は、ドアが開き外から助けが入るまで行われた。


 ウィガーもフィオーネも伊吹も、無事だった。彼らの姿を確認した後、志真は心置きなく意識を失った。


 限界だったのだ。

 思えば日本は平和だった。校長先生が鬘かどうかなんて事が話題になるような、のんびりとした学校生活。テストで死ぬとか言っていた頃が懐かしい。テストごときで本当に死ぬわけがあるか、と昔の自分に言ってやりたかった。

 幸せなんだぞ、と。

 親とか口煩くて鬱陶しいなぁと思った事もあったのに、今はただ懐かしくて恋しい。あの悪夢みたいな聖堂の中で「お父さん」「お母さん」と泣き叫ぶ子どもを何人見ただろう。同じように、子どもの名前を叫ぶ親の姿も。

 目の前で、簡単に人が死ぬ。

 そんな事が現実に起こるなんて思わなかった。何であんな事が。シュターク教派とやらが関わっているのだろうか。人為的なもの?それとも事故?大体、あの化物は何なんだ。

 ラスカゥルは。


 シマ、と呼ぶ声に目を開けた。

 そこは不思議な場所だった。霧に包まれたかのようにはっきりとしない、ふわふわしたところ。延々と続く紺色の空と、ドライアイスを焚いたような霧意外に何も見えない。

「ラス?」

 呼びかけると、霧の中に人影が浮かんだ。

 長い髪の華奢な人影。ラスカゥルだ。ただぼんやりと浮かぶ灰色の影だったが、志真はそう確信した。

「シマ、ごめんなさいね」

 ラスカゥルの影が揺れる。いつもよりも鮮明に、声として聞こえる言葉が何だか新鮮に感じた。

「あんな事するつもりじゃなかったの。……でも、気がついたら」

「もういいよ、ラス。そりゃ、ちょっとは怖かったけど。でもラスがいない方が寂しかった。どこに行ってたの」

「どこにも。ずっとシマのそばにいたわ」

「嘘、ほんとに?」

 それなら、何故話しかけてくれなかったのだろう。

「最初は、ただ申し訳なくて。このまま一緒にいたら、また同じ事をしてしまうって分かっていたから、距離を置こうと思ったの。でもその内に、すこしずつシマと遠くなるのが分かったわ。きっと、その内にシマは私の事を忘れるんだって」

「そんな事ないよ!私いっつも、ここにラスがいればって思ってたよ」

「ありがとう、シマ」

 でも、と寂しげにラスカゥルは言った。

「やっぱり私、死んでるのよ。今日のことで、踏ん切りがついたわ。もういかなくちゃ」

 いくって、どこへ。やっぱりこの世界にもあの世とかそういうのがあるのだろうか。

「でも、何で急に。だって、ウィガーの事は!?もう良いの?」

「あのね、シマ。ウィガー様に恋するのは楽しかった、でも、それよりももっとシマと色々な話をする方が、最近は楽しかったのよ」

「ラス、じゃあ」

 ここにいてよ、そう言いかける志真をラスカゥルは止めた。

「でももうここにはいられない……敵対者がいるから。敵対者は周りを変質させてしまうの。私みたいな死者の魂は、すぐに」

「その敵対者って、一体何なわけ。あの化物のこと?」

「そうよ、異界から落ちてくる人間にとり憑いてやってくる、この世界の敵。ねぇ、シマ。気をつけて。敵対者は他にも……」


 急にラスカゥルの声が遠ざかった。黒い影も、全部白い光に飲み込まれる。

 気がつくと、志真はどこか見覚えのある部屋のベッドの上だった。無機質なベッドと机があるだけの簡素な部屋。ここは、保護施設だ。

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