菊乃の脱出 3
なんとしてもここから逃げよう。
七海と名乗った謎の女性と、親切だが何者なのか分からないここの人たち。
菊乃にとっては、七海の言葉の方が信じられるような気がした。単に同じ日本語を話していたから、という理由だけではない。目で見なくても、伝わってくる印象というのはあるのだと、この状態になってから知った事だ。
ここから逃げ出す方法としては、やはり風呂の時が一番良い気がした。予定としては、3日後の祭りがあるという日にしたい。しかしその日、無事に風呂を使わせてもらえるとは限らなかった。祭りで忙しいからまた後日、なんて事にもなるかもしれない。
世の中は、菊乃の希望通りに動いてはくれないのだ。
だから、そうなった時にはどうするか、しっかり考えておかなければならなかった。
菊乃は立ち上がって、手探りで今いる部屋の様子を探ってみた。今まで何度も行った事だが、何か見落としがあるかもしれない。
床は頑丈そうな石畳。壁には木の板が張ってあるようだった。叩いたり、足踏みしたりして音を鳴らしてみるが、どこかが空洞になっているとかいうことは、残念ながら無さそうだ。隙間風も無い。
テーブルに乗って背伸びしてまで確かめたが、やはり窓は確認できない。少なくとも、手の届く位置には無さそうだった。光は感じるから、どこかに採光用の窓があると思うのだが。それより高い踏み台になりそうなものは無く、確かめようがなかった。
第一、例え窓があったとしても、そこまでよじ登る手段は無い。
壁に耳を当ててみるが、静かなものだ。
何も脱出のヒントになりそうなものは見つからない。
「………」
必死に動き回ったせいか、少し疲れた。菊乃はそのまま壁に背中を凭れさせた。
ここは一体どういう場所なのだろう。
この場所は教会だと七海は言っていた。イスルド教の、でも実際はシュターク教派。ややこしい。
どちらの宗教も知らないから、イメージもしにくかった。
教会といわれると、どうしても日本で見たキリスト教の教会が思い浮かぶ。しかし、ここは異世界。余計な先入観は捨てた方が良い。
建物はどんな感じなのだろう。大きいのだろうか。菊乃がいるこの場所は、建物のどの辺りになるのだろう。鉄格子つきの鉄のドアから連想するのは牢屋である。人を閉じ込める為の部屋。容易には抜け出せない位置にあるのかもしれない。
見取り図が欲しい。
せめて目が見えれば。
……ちゃんと、見えるようになるのだろうか。
考えたくない事ばかりが思い浮かぶ。目の事は、特に不安だった。一時的なものだと言われているが、そもそも何故見えなくなったのかも分からない。殺されかけたショックだろうか。
保護施設で起こったことを、菊乃は殆ど覚えていない。ドアが開くまでの会話は、ちゃんと思い出せるのに、その後があやふやだ。
それも、ショックのせいだろうか。
菊乃は膝を抱えて、膝頭に額をくっつけた。
………分からないことばかりだ。
そうして結局ここを逃げ出す有効な手立ては見つからないまま、時間だけが過ぎていった。
翌日の夕方。
待ちかねていた入浴の時間になった。いつもと同じように、女性が菊乃を迎えに来る。
「清めの時間です。さぁ」
と言って、目の見えない菊乃の手を引き連れて行く。彼女たちの言う「清めの時間」というのが何の事か、最初は分からなかった。何だか独特な言い回しだ。
「足元にお気をつけ下さい、少し段差がございます」
言われたとおり、小さな段差がつま先に当たった。それを踏み越えて歩く。
じれったいほどゆっくりとした歩調で、丁寧に誘導する。菊乃は自由な方な手で壁を触り、更に風呂場までの歩数を数えてみた。およそ78歩。いつも遠いと思っていたが、やはり結構な距離がある。
ずっと壁を辿っていた指は、その間3度ドアのようなものに触れた。
脱衣所に入ると、女性がタオルと石鹸を菊乃に手渡した。そして、新しい服の入った籠の場所の前まで誘導される。
「では、ごゆっくり、身をお清めください」
そう言って、女性の気配が遠ざかる。外へと足音が遠ざかり、ドアが閉まる音が響いた。出て行った、のだろうか。本当に?確信が持てないから、妙な行動は取れない。
菊乃は着ていた服を脱ぎ、タオルを体に巻きつけた。そして、石鹸を持って風呂場に向う。
脱衣所は狭く、長細いつくりになっていた。棚があるのと逆側の壁に手摺がついているため、目が見えなくても然程苦労せず風呂場へ行ける。いつものように風呂場に入った菊乃は、そこで手にしていた石鹸を床へと滑らせた。鈍い音を立てて床に落ちた石鹸がどこにあるのか、もう菊乃にも分からない。
これで、万が一誰かに見られたとしても言い訳はつく。
石鹸を探すふりをして、菊乃は風呂の様子を確かめ始めた。
床は木の板だ。
板と板の間に指先よりも細い隙間が空いていて、そこへ水が落ちていくようになっている。壁はタイルだろうか。つるつると滑る冷たい感触が指に触れた。時々、妙なひっかかりが指先に触れる。何か模様が彫ってあるのかもしれない。
そんな模様に用は無かった。必要なのは、ここから抜け出す為の何か。
壁に手を這わせて、端から端まで慎重に窓を探す。少しの見落としも無いように。
しかし、菊乃はついに目当てのものを見つける事ができなかった。
風呂場に窓はない。
菊乃はため息をついた。
落胆しながら、途中で見つけて壁に寄せておいた石鹸を拾う。がっかりしている時間は無かった。もう大分時間が経っている。素早く体と髪を洗ってから、ふと手を止めた。
水……。
できるだろうか。不安を感じながら、胸の辺りに意識を持っていく。ざわざわとする何か、それをユーイは揺らぎと呼んだ。以前よりもはっきりと、その揺らぎを感じられる。
暖かいのに、冷たい、不思議な……、
「どうかされましたか」
「!」
外から声を掛けられて、菊乃ははっと息を飲んだ。どうやら、時間切れのようだ。菊乃は慌てて返事をした。
「すみません、石鹸を落としてしまいました。もう大丈夫です。行きます」
残念だが仕方無い。
菊乃は石鹸とタオルを手に、風呂場を後にした。
帰りの際は、行きと反対側の壁を辿った。窓らしきものも、ドアらしきものも確認する事はできなかった。
中々思うようにはいかない。
部屋に戻った菊乃は、再び溜息をついた。風呂場から逃げる事は無理そうだ。だとしたらやはり途中で女性を振り切って逃げるか、部屋に食事が運ばれる時に隙をついて逃げるしかない。
しかし、それを目の見えない状態で行うことは、至難の業だ。
七海に手渡された短刀のことが、頭の隅を過ぎる。無理だと思うものの、菊乃に残された道は少ない。
もし、実行するなら、女性が来た時にするべきだ。
相手は、菊乃が逃げ出すとは思っていない筈だ。今まで大人しくしてきたし、目が見えない状態に油断している事だろう。
だから。
菊乃は自分を励ますように、心の中で繰り返した。
大丈夫。絶対無理な事じゃない。
諦めたら駄目だ。理不尽な状態に屈したりしたら。
諦めず、抗え。そう耳の奥で声がしていた。菊乃を叱ったハイネスの声だ。その声を思い出すと、不思議と力が湧いてくるような気がした。




