菊乃の脱出 4
結局、逃げ出す為の有効な手立てが考え付かないまま、3日目を迎えた。
それでも昨日は、出来ることは全て行った。まずは、食事を運んでくる人間の行動を探ること。音で判断するしかないため、非常に神経を使った。
運ばれる食事はトレイの上に載っている。足音以外に音は無い(例えば台車を押すような音など)から、彼らはそれを両手で持って来るのだろう。部屋に入ってそれをテーブルに置くまでの時間は、少なくとも両手がふさがっている状態になっている筈。
入ってすぐはダメだ。
ドアから離れてテーブルに料理を置く時。その時ならドアの前に行きやすいし、彼らの意識も菊乃から逸れているだろう。
チャンスは一瞬。
彼らが部屋にいる時に、ドアに鍵は掛けられない。それも昨日確認した。隙をついて、ドアから逃げる事ができるかもしれない。
菊乃は、ベッドからドアへ何度も往復して、その感覚を覚えようとした。いざ逃げ出す時に、見当違いの場所へ行ってしまわないように。繰り返す内、うまくドアまで進めるようになった。落ち着いて、この感覚を忘れなければドアまではたどり着けるはず。
きっと、大丈夫。
そう言い聞かせて、不安に押しつぶされそうな気持ちを奮い立たせる。そうしなければ、動けなくなりそうだった。
今日のお祭りは、午前10時から始まって、午後6時頃まで行われるらしい。抜け出すのは昼食の時が良いだろう。
一つ気がかりなことがあった。
昨日食事を運んできた女性に、翌日の祭りのことを聞いたのだ。
何かお祭りがあるらしいですね、と。すると彼女はやや興奮した様子で答えた。
「ええ、偽りでなく本物の祭事が行われるのです」
本物の祭事。
その意味するところが分からない。ただ機嫌を損ねないように彼女にあわせ、凄いですねと言ってみた。それが良かったのだと思う。彼女はすっかり気をよくして、色々と詳しく教えてくれた。いつから始まるのか。集まるだろう人の数。その日にお披露目される新しい大聖堂の素晴らしさ。
熱っぽく語られる言葉を聞き取るだけで、精一杯だった。
「明日は約束された始まりの日。奇跡が起こる日なのです。やがて皆の目も覚めるでしょう」
約束とは、奇跡とは何のことなのか。
分からないが恐ろしかった。何か良くないことが起こるような、不吉な予感がする。ただの考えすぎならば良いが。
祭りの日という事もあってか、今日は随分騒がしい。上の階を通り過ぎる足音がひっきりなしに響き、人々の話し声がざわざわと響いてきていた。いつもが静かなだけに、何だか落ち着かない気持ちになる。
既に結構人が集まってきているようだ。
まだ、来ない。
菊乃はドアがある方向へ耳を傾けた。いつもなら、とっくに朝食が運ばれている頃だと思う。勿論時間を知ることはできないから、ただ感覚でそう思うだけだが。
でも多分、いつもより遅れている。
待つうちにだんだんと不安になってきた。今日は祭りだ。忙しくて夜まで来てくれなかったらどうしよう。空腹は問題ないが、逃げる切欠を逃してしまうのは困る。
もしかして、逃げようとしているのがばれたのだろうか。
こんな時は、嫌な考えばかりが浮かぶ。
じっと待つ菊乃の耳に、待ちかねていた足音が聞こえてきた。一瞬迷う。昼に逃げようと決めていたが、いつもより朝食の時間が遅れている事実が決意を鈍らせていた。遅れるだけならば良い。もしも、来なかったら。
菊乃は枕の下に隠した短剣に手を伸ばした。
ドアが開く。
「おはようございます。少しお待たせしてしまい、申し訳ありません。すぐに朝食の用意をいたします」
息を殺して様子を伺う菊乃の耳に、絶望的な音が響いた。
がちり、という金属音。
それは鍵が閉まる音だった。
「今日は特別な日。色々と騒がしくなります。お一人で過ごすのは不安でしょう。今日は私が一日、お傍につかさせて頂く事になりました」
「……一日?」
「はい」
ショックを受ける菊乃に気がついていないのか、女性は柔らかい声で告げる。
「さぁ、まずは朝食にいたしましょう」
それとも、菊乃の行動などとっくに見抜かれているのだろうか。よりにもよって、今日一日。これでは見張りをつけられている様なものだ。
どうすることも出来ず、菊乃はそっと枕の下から手を抜いた。
朝食は殆ど食べられなかった。
心配して具合が悪いのかと聞く女性の言葉も、殆ど耳に入らない。今日この日を逃せば、後が無いような気がしていた。
まだチャンスはある、そう思いたいが。
暫くして、上の階から歌が聞こえている事に気がついた。初めて聞く音楽だ。不思議な曲調だが、心地よく響く。歌詞もまともに聞き取れないが、優しく暖かいと感じられる歌だった。
「始まったようですね」
呟いて、女性は菊乃の隣に腰を下ろした。膝の上においていた手を、そっと握られる。驚いたが、跳ね除けることはしなかった。
「ようやく、道が正されるのです」
「……何があるのですか」
聞かずにはいられなかった。彼女達の言葉の端々に、不吉なものが潜んでいる。それが、菊乃は恐ろしい。
答えは無かった。
ただ黙って、宥めるように手を撫でられる。優しく慈愛に満ちた柔らかな気配。それが何故こうも恐ろしく感じられるのか。
いつの間にか歌が止んでいた。
沈黙、いや、誰かが何かを話している。
菊乃はひたすら耳をすませた。それしか状況を知る方法が無い。
まだ話は続いているようだ。随分と長い。
その内にざわざわと、再び人々が話し出す。困惑が伝わってくるようだった。
次に聞こえてきた声は、最初何かの楽器の音のようだった。低音から徐々に高音にせり上がっていく「あー」という奇妙な声。女性なのか男性なのかも分からない。とにかく不気味な声だった。
続いて、何か重たいものが倒れるような大きな音が4度響く。
やがて聞こえてきた悲鳴に、菊乃は立ち上がった。
「大丈夫です、落ち着いてください」
ひっきりなしに悲鳴や怒声、泣き叫ぶ声が聞こえてくるこの状況で、何故そんな穏やかな声が出せるのか。菊乃の手をそっと握る暖かさが恐ろしくなった。
「恐れる必要は無いのですよ」
「な、何が……」
「選定が始まったのだけのこと」
それ以上耐えることはできなかった。
菊乃は握られた手を振り払うと、枕の下へ手を突っ込んだ。指先に固い金属の感触が触ると、迷わずそれを掴んだ。柄を掴み、もう片方の手で鞘をベッドに押し付けて剣を抜く。
「何を」
困惑する声から逃げるように立ち上がって、ドアに向かった。ぶつかるようにしてドアの取っ手を探り当て手をかけるが、やはり開くことは無い。
菊乃は振り返って剣を胸の前で構えた。
「何故そんなものを」
震える手を前に突き出す。
「ここを開けて」
怖くて怖くてたまらなかった。尋常ではない悲鳴が聞こえてくるたびに、足が震える。
「お願い」
「お止めください。そんな危険なものを振り回して、怪我をしたらどうするのですか」
その言葉にはっとした。
殆ど反射的に、菊乃は剣の向きを変えた。相手側にではなく、自分の方へ刃先を向ける。目の見えない状態では、かなり危険な行為だったが躊躇いは無かった。
はっと、息を呑む音が聞こえる。
「お止めください」
その声には、先程までとは違って緊張と焦りの色が混じっていた。
異世界人を神の遣いとして、
七海の言った通りだとしたら、彼女達にとって菊乃の存在は特別なものである筈だ。
「動かないで」
近づこうとしていた気配が、はっと動きを止める。光の中で黒く見える人影に向かって、菊乃は静かに告げた。
「ここから出して、駄目なら、死にます」




