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菊乃の脱出 2

 いつの間にか眠っていたようだ。

 頭が重く、気だるい。ここへ来てから寝すぎている。する事もないし、目が見えないせいだ。

 知らない場所、知らない人々。

 最初は警戒してとても眠れなかった。何も出来ないからじっと息を押し殺して、目が見えない分耳を済ませて。足音が近づいてくる度、ドアが開けられる度に恐怖と不安でおかしくなりそうだった。

 今だって、状況は変わっていないが、菊乃の方がこの生活に慣れてしまっていた。


 何時くらいなんだろう。


 目が見えないから、時間は分からない。光を感じる事はできるから、室内の暗さや明るさで、昼なのか夜なのか判断をつけるしかなかった。後は、三度の食事だけが菊乃に時間の流れを教えてくれる。

 結構眠ってしまったような気がした。じきに昼食の時間だろうか。食欲は無い。今日もあまり食べられないだろう。

 未だぼんやりとする頭を左右に振って、菊乃は起き上がった。米神の辺りが鈍く傷む。何かあまり体調が良くない。ベッドの上でぼうっとしたまま、菊乃は上を見た。今日は何か騒がしい。ばたばたと行きかう人の足音と、時折言い争うような声が聞こえる。何と言っているかまでは、残念ながら聞き取れないが何かあったのだろうか。


 目が覚めたのは、この騒がしさのせいだろう。

 その内に、この部屋に近づいてくる足音に気がついた。ひたひたと、音を殺すような静かな足音。気をつけていなければ、上の騒がしさに紛れて聞き逃してしまいそうだ。

 足音は部屋の前で止まった。

 かちりと鍵が外されて、ドアが開く。

 いつもと違う雰囲気を感じて、菊乃は身構えた。ドアを開けた人物は、そのままそこから動こうとしない。言葉もなく、ただ視線だけを送ってくる。どうしたら良いのか分からず、菊乃もただじっと息を殺すしかない。

 居た堪れない沈黙を破ったのは、相手の方だった。


「ごめんなさい」


 良く通る女性の声に、菊乃は目を見開いた。初めて聞くその声は、確かに日本語を喋っていた。

「出きれば貴方も連れて行ってあげたいんだけど、無理なのよ。こっちはもう1人で手一杯。あいつは捕まれば後が無いし、助けてあげられるのはあたし達だけ。だから、無茶はできないの」

 違和感の無い日本語だった。この世界で話せる人はウィガーやリザレットくらいしかいない筈。この人は一体何者だろう。混乱する菊乃を知ってから知らずか、女性は話を続けている。

「ほんとはもうちょっとこの町に留まるつもりだったけど、もう限界みたいね。ここのやつらが始めたことを止められなかったから。直に、酷い騒ぎになる。あんたもさっさと逃げて、保護してもらった方が良いよ。ごめんね。本当は外に出してあげたいけど、ここの奴らが許さないんだ。だから、せめて教えてあげようと思って」

 時間があまり無いのか、早口で女性は言う。

「ここは表向きはイスルド神を祭る教会なんだけど、実際はシュターク教派の隠れ家なんだ。シュターク教派っていうのは異世界人を神の遣いとして歓迎してる奴ら。だから、あんたは大事にされてる。でも、やっぱり逃げた方が良い。3日後。イスルド神の聖誕祭がある。人が沢山来るその時なら、逃げやすいと思う」

 かつん、と何かが床に置かれる音がした。

「差し入れ。その気があるなら使って。取り扱いには注意して。それじゃ、幸運を祈ってる」

 別れの言葉に、菊乃ははっと息を飲んだ。

「ま、待って!」

 漸く言葉が出た。聞きたいことが多すぎて、中々言葉が出てこない。しかし、考えている時間はなかった。

「あ、貴方は誰なんですか。どうして日本語を」

「……あたしは七海・ルルルイエ。祖父が日本人」

「え……」

「ごめんね、もう行かなきゃ。……あ、最後に1つだけ。嘘つきなこの国に、騙されて利用されないように。忠告しとくよ」

 それじゃあね。

 その言葉を最後に、ドアが閉まる音がした。外側から鍵が掛けられる。菊乃は思わず立ち上がったまま、暫くその場を動けなかった。


 何だったんだろう、今の人。

 ななみ・るるるいえ?

 祖父が日本人……、夢や幻で無く、現実の事だった?

 恐る恐る立ち上がって、菊乃はドアに近づいた。彼女は部屋に何かを置いていったようだった。うろうろと、手探りでそれを探す。やがて、長く平たいものが手に当たった。どきりとした。何かがあるということは、先程の女性は本当にいたのだ。

 金属のような冷たい感触。長さは菊乃の手首から肘くらいまで。

 取り扱いには注意して。

 その言葉を思い出して、慎重に持ち上げてみる。結構な重さだ。片方が丁度掴み易い太さになっている。そちらを掴んだところでぴんときた。

 これは剣だ。剣というか、短刀。柄を掴み、慎重に鞘だと思われる部分を引っ張ると、やはり抜ける。

 怖くなって、菊乃は鞘をすぐさま戻した。


 これを、使えって。


 無理だ。

 ここから逃げたいとは思うが、人を傷つける覚悟は無い。

 武器を突きつけて脅す、それすらきっと無理だ。目が見えないこの状況では、何が起こるか分からない。

 菊乃は溜息を吐いて、短刀をシーツに包んで隠した。

 3日後なら風呂がある。しかし、夕方の時間では、もう遅いだろうか。イスルド神の聖誕祭が一体どういうものなのかも分からなかった。昼間だけのお祭りなら、夜になる前に逃げ出さなければならない。

 もっと色々聞いておけば良かった。

 しかし今更後悔したところで遅い。七海は随分急いでいたようだし、あれ以上は無理だったのだろう。誰かを連れて逃げるような事を言っていた。どうして逃げる必要があるのか、それが誰なのかは分からない。その人の事が、少しだけ羨ましいような気がした。

 七海は、その人の事をとても大切に思っているのだろう。短い会話だったが、そんな風に感じられた。


 菊乃には、きっとそんな人はいない。

(自分で何とかしないと)

 感傷に浸っている暇は無かった。


 昼食の時間。

 いつものように昼食を持って人が来た。持ってきたのは若い男性のようだった。朝の人では無い事に、まず違和感を覚えた。

 今まではずっと、朝と昼は同じ人が運んできていた筈だ。

「あの」

 恐る恐る、菊乃は声を掛けた。

「どうかしましたか」

「何か、ありました?上の方が、少し騒がしかったです。朝の人は大丈夫ですか」

 一瞬落ちた沈黙が怖い。どきどきする心臓を何とか沈めようとしながら、菊乃はぼんやりとした人影を見上げた。

「どうやら、いらぬ心配を掛けてしまったようですね。申し訳ありません」

「い、いいえ、そんな」

「大したことでは有りません。もうすぐ大切なお祭りがあるものですから、少し慌しくなります。朝の者は、その祭りの準備でここを離れております。代わりに手の空いた私が、ここへ」

「す、すみません……」

「謝る必要はありません。貴方のお世話をする事は、私共にとってとても重要な務めであるのと同時に、光栄な事でもあります」

 熱が込められた声に、背中がざわりとした。怖い。異世界人を神の使いと歓迎している。それは一体どういう事なのだろう。

「あ、あの……お祭りって、どういうものなんですか」

「世界の歪みを正す為の祭りです。この世界を正しい有り方にする。貴方には随分長い間不自由な思いをさせてしまい、申し訳なく思っています。ですが、それも後暫くの辛抱。選定の月を過ぎるまでです」

「え……」

「直の解放を誓いましょう」


 自由にすると、言われている。


 それなのに、何故か酷く不吉な予感がしてならなかった。

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