菊乃の脱出 1
遠くから足音が近づいてくる。歩調はやや早め、規則正しくかつかつと響く音に菊乃は耳を澄ませていた。予想したとおり、足音は菊乃がいる部屋の前で止まる。ほぼ同時に、外側から鍵を回す音が聞こえ、ドアが開く。
「おはよう、もう目が覚めているようね」
明るく声を掛けてくる女性の声。
その姿を、菊乃は見ることはできない。
ここで目が覚めたときから、菊乃は視力を失っていた。流石に動揺したが、一時的なものだと説明を受けて少し落ち着いた。それが本当かどうかは分からないが、信じるしかない。一向に見えるようになる兆しが出てこなくても。
深く考えると不安で押しつぶされそうになるから、なるべく考えないようにしていた。
「大丈夫?ぼうっとしてるけど、まだ傷が痛む?」
女性の声は優しく労わりに満ちていた。名前すら教えられていないが、親切にしてもらっている。
「大丈夫です」
やんわりと否定するが、本当は少し痛かった。
寝ている間に治療されていたらしく、傷口はほぼ塞がっている。
傷の箇所は、腹部の左当たりと鎖骨の右下当たり。多分、刺されたのだと思う。ドアが開くと同時に眩しい光を向けられて、咄嗟に目を瞑ってしまった。首筋にちくっとした小さな痛みを感じた後の事は、あまり覚えていない。
動けなかった事と、黒い布で顔を隠した男の姿。それから、床に仰向けになった状態で、上から2回剣で刺された事と、その時の気が遠くなるような痛み。
断片的には思い出せるが、はっきりとしない。
その時に何か会話をしたような気もする。いくら考えても思い出せなくて、その内に全部の記憶が本当にあった事なのか、分からなくなってくる。傷があるから、刺された事だけは確かなはず。でも、それならどうして生きているのだろう。
そして、ここは何処なのだろう。
「朝食よ。食べられる?」
頷くと、光の中で暗い緑のような影が動く。ベッドに座る菊乃の手を、華奢で冷たい手が掴みひっくり返す。掌の上に柔らかいものが置かれた。丸い形をしていて、一部だけ冷たい。多分間に何か挟んだパンだ。こういうものなら、目が見えなくても簡単に食べる事ができる。
「いただきます」
パンを一口かじってみる。少し固めの、塩気のあるパンだ。挟んであるものは歯ごたえのある葉野菜に、ハム、チーズ。
「スープもあるわよ」
空いていた左の手に、マグカップを渡される。
「ありがとうございます」
こちらは細かく刻んだ野菜と鳥肉?のスープだった。温く暖められたミルク、食後に甘く煮た果物。いつも全部は食べられない。申し訳ないと思うのだが、無理に食べると吐いてしまうのだ。動いていないから食欲が出ないこともあるが、思った以上に体調も悪い。
食事が終わると、女性は簡単に部屋の片づけをして、出て行く。
外から鍵が掛けられる音がして、菊乃は小さく溜息を吐いた。
ここは一体どこなんだろう。
保護施設ではないと思う。まず部屋が違うようだし、何の説明もされないというのはおかしい。施設にいた時は、世話をする職員が決まっていて、きちんと名前を教えてくれていた。ここでは、誰の名前も教えられていない。
勿論、ユーイ・ユーイの屋敷でもない。怪我をしたから病院に入れられているというわけでもなさそうだった。
どこか知らない場所に、監禁されている。
多分それが正解なのだろうが、一体どうして。殺されるなら兎も角、こんな風に閉じ込められる理由が分からない。犯人は、あのチフセとかいう男なのだろうか。
彼は菊乃の事を知っていた。
名前だけでなく、色々な事を。普通は知らないようなことまで。
だが、チフセと名乗った男は、あれから一度も菊乃の前に現れていない。ここの人達の仲間ではないのだろうか。とにかく謎が多すぎる。
閉じ込められている事以外の待遇は、そこまで悪くない。食事は三食出るし、怪我の治療もしてくれている。拷問される事も無い。今のところ、入浴が2日に1度しかさせてもらえないことが不自由に感じるが、それだって監禁されている立場を思えば贅沢といえる。
彼らは、一体何がしたいんだろう。
全然分からない。
菊乃は溜息を吐いて、ベッドに仰向けに寝転んだ。目が覚めて、日数を数え始めてから既に12日が過ぎている。何も出来ず、何も起こらず過ぎていく日々を、菊乃は恐れていた。
ずっとこのままのはずがない。
次に何が起こるのか、何をされるのか。予想できないだけに恐ろしかった。部屋に近づく足音が聞こえるたびに、不安と緊張で気がおかしくなりそうだった。
できればすぐにでも、ここから逃げ出したい。だが、目が見えないこの状態では、逃げ出す事は難しかった。
頼みの綱は、外からの助けだけ。
しかしそちらも、菊乃は期待していなかった。
保護者だったユーイ・ユーイを怒らせてしまっている。彼はきっと菊乃を探したりしないだろう。ジェレミーは心配してくれてはいるかもしれないが、最後はユーイ・ユーイに従う筈だ。
2度も自分を助けてくれたハルラック。彼がもう一度自分を助けに来てくれるとは思えなかった。ハルラックは優しい人だ。だが例え助ける気があったとしても、今は保護施設から出る事はできない。
やっぱり、自分でも何とかしないと。
目が見えなくても、逃げ出す事はできるだろうか。手探りで部屋の様子を確認した限りでは、窓はなかった。ベッドと丸いサイドテーブル。椅子が一脚。棚の 1つも無い。部屋の大きさは6畳くらいだろうか。トイレに続くドアと、外へ出入りする為のドアがある。ドアは重たい金属製で、上の方が四角く空いていて、鉄格子が嵌っていた。鍵は外から掛かっている。見張りは多分いないと思う。
もし、逃げ出すとしたら誰かがここへ食事を運んできた時。
あるいは、外にある風呂へ行っている時。それが菊乃が唯一この部屋の外へ出られる時だ。
風呂といっても、浴槽やシャワーがあるわけではない。
隙間が空いた木の板の床がある場所で、たらいのようなものにお湯をいれ、それで体を洗ったり髪を洗ったりする。手渡されているのは石鹸と、タオル。その場所がどんなところなのかまでは、分からない。
音の反響具合から、そんなに広い場所では無いと思う。
気を使われているのか、入浴に付き合うのは必ず女性で、最近は脱衣所の外で待っていてくれるようになった。
風呂に窓はあるのだろうか。
換気の為に作られているかもしれない。
少しだけ希望が見えてきた。次の入浴の時に、確認してみよう。不審に思われないよう、お湯を使っている音を出して……。そこで、菊乃は「あ」と小さく声を上げた。
水。
症例38。
そう告げたユーイ・ユーイの声が蘇る。実感はあまり無いが、菊乃は水を呼ぶことができるのだと彼は言った。異世界に来た際に起こった、能力付加。ハルラックのピンチにいきなり湖が出現した、あのとんでもない現象を引き起こせるなら、逃げ出す手助けになるかもしれない。
幸い、風呂場には水がある。
室内で試す事は危険だが、風呂場なら誤魔化せるかもしれない。
何だかいけそうな気がしてきた。久しぶりに、気分が高揚してくる。
次の入浴は明日の夕方だ。
ばれないように、慎重にやらなければならない。落ち着かない気持ちを抑えるように、菊乃は目を閉じ深呼吸をした。




