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志真と宿屋一室、曰く付き 3

 朝食の後、志真は眉間に皺をくっきり刻んだウィガーと顔を突き合わせ、言葉の勉強をさせられるという苦行を強いられていた。

 聞きなれない言葉を懸命に聞き取ってメモを取り、口に出してみる。ダメだしが入りもう一度。片言でも意味は通じるからと、まず単語を覚えさせられているが、いい加減頭がこんがらがってきた。


「ちょっと休憩!」

「それは俺が決める事だ。ほら、続けろ」


 有無を言わせぬウィガーの態度に、志真は大きな溜息を吐いた。勿論、必死にならなければならない状況なのは分かっている。仕事をするにも学校に行くにも、言葉が分からなければ始まらない。

 しかしこのウィガーのいかにも迷惑そうな態度は如何なものか。志真だって、好きで迷惑かけているわけではない。

「志真」

 促されて、渋々口を開く。結局のところ、どんなにむかつく相手でも、唯一言葉が通じる相手なのだ。志真はウィガーに頼るしかない。この世界の言葉を覚えるまでは。


(早く覚えてやる!)


 やる気を出したのは良いが、結局のところ平凡な頭脳を有する志真なので、暫くはこの勉強会は終わりそうになかった。

 昼。疲れきった志真は、もそもそと昼食を取っていた。暫しの休憩時間。宿屋は忙しいから、皆で食事を取るのは朝くらい。後は皆がそれぞれ順番に暇を見つけて食事を取る事になっている、とウィガーから聞いている。そのウィガーも、店の方へ行ったきり帰ってこない。

 はぁ。食べながら思わず溜息が出る。食べ物が不味いわけではない。ちょっと癖のあるスープ以外は、とても美味しい。

 ほんのり甘い茶色のパンに、チーズとハーブのスパイスのきいた炙った鶏肉と菜っ葉を挟んだ、サンドイッチ。酸味のある具沢山の野菜スープに、黄色いプリンみたいなもの。美味しいのだが、一人で食べると何となく味気ない。


(…かといって、ウィガーにいて欲しいわけじゃないけど)


 あのしかめっ面を見ていたら、気が休まらないし食欲も無くなりそうだ。

 時間が惜しいとか言って、食事中にも単語を覚えさせられるに違いない。戻ってきたら、再びあの悪夢のような勉強会が始まるのだと思うと、自然と溜息が出てしまう。

 面倒くさい…けど、このままじゃ困るのは志真なのだ。それは分かっている。

「頑張る…頑張ろう」

 気合を入れて、志真はサンドイッチを口へ押し込んだ。


 食事を終えて暫くしても、ウィガーは戻ってこなかった。暇なので、先ほど覚えた単語の書き取りでもしてみる。こういうのは、繰返しが大切なのだ。多分。暫く真面目にやってみたが、すぐに飽きてしまった。

「ウィガー、遅い」

 テーブルにうつ伏せになって目を閉じる。すぐに心地よいまどろみがやってきた。勉強疲れと、お腹が膨れたせいだろう。

 うとうとする志真の耳は、くすくすと笑う女性の声を拾い上げていた。誰かがどこかで笑っている。押し殺すみたいな、笑い声。良いな、楽しそうで…。


 楽しくなんかないわ


 声はすぐ耳元で聞こえた。志真はがばりと起き上がって、慌てて辺りを見渡した。誰もいない事を確認して、未だに寒気の残る首筋に手を置く。

 気のせい、か?

 ばくばくと心臓が音をたてていた。間髪置かずドアをノックする音が響いた為、志真は飛び上がった。

「…!な、何よ今度は」

「シマ?」

 はっきりとしたやや低めの女性の声が、志真の名を呼ぶ。この声は確か…。

「フィオーネ、さん?」

 小さな音をたてて、そっとドアが開く。顔を覗かせたのは、ウィガーに似た顔立ちをした彼の妹フィオーネだ。

 どんな人なのかまだ良く分からない、その上言葉が通じない相手だ。嫌でも緊張してしまう。今は、通訳となるウィガーもいないのだ。緊張気味の志真に対して、フィオーネはにこりと笑いかけた。兄と違って愛想の良い、爽やかな感じの笑顔だ。

「こんにちは、シマ」

「え…!あ…こ、こんにちは!」

 ゆっくりとどこかぎこちない発音の日本語の挨拶だった。たったの一言だったが、何だか嬉しい。穏やかな雰囲気を纏ったフィオーネに、自然と志真の緊張も解れた。

「えっと、用、何か?」

 先ほど覚えた単語を必死でひねり出して、口にしてみる。フィオーネは少し驚いたように目を丸くした後、笑みを深めた。

「兄貴に頼まれたの。貴方を買い物に連れて行って、必要なものを揃えるようにって」

 志真に分かりやすくゆっくりと話してくれている、のは分かるのだが。聞き取れたのは兄という単語と、買い物くらいのものだった。

 兄って、ウィガーの事だよな、と志真は頭を悩ませる。買い物…って、ウィガーは買い物に出かけたとかそういう事だろうか。

 フィオーネは、悩む志真の手を引いた。

「来て。私と一緒に、買い物に行こう」

 今度のは、もう少し分かった。来てと、行こう。つまり、買い物に二人で行こうという事だ。多分。

 志真の持ち物は少ない。簡単な日用雑貨から、服に下着と揃えるものは沢山あった。身の回りのものを揃える為の支度金は用意されていたから、お金の心配は暫くはしなくて良い。

 賑やかな大きな道に面した衣料品店を何件か周り、服を買った。フィオーネとの買い物は楽しかった。言葉は殆ど分からなかったが、何となく言いたい事は伝わってきた。

 可愛い小物やアクセサリーを見たり、互いに服を試着して見せ合ったり。楽しく買い物をしながら、フィオーネは志真に新しい言葉や、買い物の仕方を教えてくれた。更に、宿屋周辺の店の場所なども志真は覚えた。

 きっと、店で働くようになった時に、必要になる事なのだろう。

 無愛想な兄と違って、愛想よく明るいフィオーネは、何処へいっても声をかけられる。笑顔で挨拶する彼女の隣で、志真も真似て挨拶しにこにこ笑ってみせた。近所付き合いは大切だ。特に商売やってるところなんかは。

 一通りの店を回った後で、フィオーネは志真の顔を見下ろした。志真は162cm、低い方では無いのだが、フィオーネは更に背が高い。

「シマ、疲れたでしょう。そろそろ帰ろうか。もうすぐ夕飯の時間だし、私も手伝いに行かなくちゃ」

 殆ど聞き取れなかったが、帰ろうと言われているのだなとは何となく分かった。大分疲れていたので、志真としても助かった。


 宿屋の入り口では、客商売向けではない顔のウィガーが仁王立ちで待っていた。第一声はお帰りではなく、遅かったなである。嫌になるな、この男。

「フィオーネ、食堂で人手が足りなくて困っているから早く行ってやれ」

「うん、すぐ行くわ」

「悪かったな」

「良いのよ。私も楽しかったし」

 入り込めない兄妹の会話。というか、入り込もうにも何と言っているのか分からない。「またね、シマ」と笑顔を向けたフィオーネが去っていくのを見て、志真は慌てて声を出した。

「フィオーネさん、ありがとう!」

 これも今日覚えた言葉だ。フィオーネは振り返って微笑むと、小さく手を振って駆けて行った。

「随分仲良くなったようだな」

「うん。……フィオーネさんって、ウィガーと全然似てないから」

「どういう意味だ、それは」

 ウィガーはぎろりと志真を睨みつけた後、小さく溜息を吐いた。その様子に、あれ、と思う。

「どうしたの、ウィガー。何か疲れてない?」

「……いや」

 声に覇気が無い。何かあったのだろうか。志真に言葉を教えている時は、もっと元気があったような気がする。今日の午後、ウィガーは来なかった。最初の予定では、午後も志真に言葉を教える事になっていた筈だ。解放された嬉しさで気にしていなかったけど。

 気がついてしまうと、気になってくる。

 じっと見上げる志真を、ウィガーはどこか物憂げに見下ろす。

「何なのよ」

「……関わりたくなかった。だから、俺は日本語を選んだんだ」

「ウィガー?」

「流されてくる数が少ないのを選んだ筈なのに、全く」

 ついてない、とウィガーは疲れたように額に手をやった。何があったのか分からないが、打ちひしがれている。

「ついてないのはこっちだよ。いきなり訳分かんない…異世界だとか、もう自分の世界には帰れないとか言われてさ。何でこんな事になっちゃうんだろ」

 ウィガーは空色の目で、じっと志真を見下ろした。

「……何で、か」

「ん?」

「いや。……何でもない。部屋に戻れ、後で勉強の続きだ」

「まだやるの!?」

 思わず声を大きくした志真に向って、ウィガーは薄く笑って見せた。


 この日、ウィガーがどこで誰と何をしていたのか。志真が知るのは大分先の事となる。


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