志真と宿屋一室、曰く付き 4
夕食後4時間ほど自主勉強をさせられ、勉強の成果を確認した後漸く志真は自由時間を与えられた。頭がパンクしそうだ。よろよろとベッドに倒れてから、あ、そうだと起き上がる。
日記がまだだった。
まだ真新しいノートを開き、ちらりと昨日書いた分に目を走らせる。
「え」
そこに、自分が書いた覚えの無い一文を見つけて、志真の目は丸くなった。というか日本語じゃない、今勉強中のこの国の言葉だ。絶対に志真が書いたものではないと断言できる。なんて書いてあるのかまでは、読めない。達筆すぎて。
一体誰が何を書いたのだ。人の日記帳に!
志真は眉間に皺を寄せて唸った。人の日記を読むなんて…って、読めないのか?ウィガーなら読めるかも知れない…。ウィガーなら。ウィガーじゃなかったら、読めないから当然何て書いてあるか分からずに、日記だとも気がつかないかも。そして、最後の一文。
何て書いてあるんだろうか。非常に気になる。
むくむくと好奇心が湧いてきた。誰が何を思って書いたのか。聞けそうな相手は、不本意ながらウィガーくらいしかいなかった。
酒場にいたウィガーは、まずやってきた志真に顔を顰めて立ち上がった。有無を言わせず志真を部屋へと連れて行く。お前、あそこはこんな夜更けに子供が来るようなところじゃ…との説教を聞き流し、ノートの一文を突きつける。
「何だ…?」
訝しげに、ちょっと面倒そうにそれを目にしたウィガーの顔色が、さっと変わる。いつもより更に険しい顔で、ウィガーは志真を睨んだ。
「お前、これを誰から聞いた」
「……誰なのかは、私が知りたいんだけど。ちゃんと話聞いてた?これ、私の日記帳に勝手に何か書いてった人がいるみたいで、私としては誰が何を書いたのか知りたいんだけど」
「………確かに、お前の字はもっとこう、ミミズがのた打ち回ったかのような字だったな。これは綺麗過ぎる」
「そこまで酷くない!多分。…で、これなんて書いてあるの?」
わくわくとした志真の様子とは逆に、ウィガーの表情は渋い。彼が怒るような事が書いてある、という事だけは間違いない。
「他の人に見せてみた方が良い?」
「よせ」
ウィガーは苦虫を潰したような顔で、低く唸るような声を出した。
「知らない方が良い事もあると、俺は思うが。どうしても聞きたいか?」
「だって、気になるよ」
「…忠告はしたからな。読み上げるぞ…『私はラスカゥル。ここで殺された女』そう、書いてある」
それは1年と半年ほど前の事だ。
むっと湿った空気が纏わりつくような、息苦しい夜。草木も眠る丑三つ時。夜の静寂を引き裂くような、けたたましい女の笑い声が……
「悲鳴じゃなくて?」
「……笑い声だったらしい。けたけたと甲高いな」
それはそれで怖い、ような。いや、それよりも。
「らしい、って。実際ウィガーが体験した話じゃ無いんだ」
「…ああ。俺はその時はまだ、騎士だったからな。そもそもここにいなかった」
という事は、ウィガーが宿屋で働き始めたのは最近の事なのか。
「それで?」
「笑い声の主は、この部屋の当時の泊り客、ラスカゥル嬢だった。酒を飲み、あろう事が男を4、5人連れ込んで大騒ぎだ。名のある貴族のご令嬢とはとても思えぬ行動だったそうだ」
「ふーん、で、追い出したの?」
「……いや。だが、注意はしたらしい。連れ込んだ男は帰らせて、静かにすると約束をさせた。その日はそれで収まった。……だが、次の日」
ウィガーの声が、地を這うほど低くなる。自然と志真も首を竦めた。
「ラスカゥル嬢は刺殺死体で発見された」
「え!」
意外と物騒な世界だな、と志真は顔を引きつらせた。
「連れ込んでいた男達の内、一人が帰ったと見せかけて潜んでいたらしい。金品目的で、抵抗したラスカゥル嬢は無残にも刺し殺されたというわけだ。犯人はすぐに捕まったが……客足は遠のいた」
「幽霊が出た、とか?」
「いや。そんな噂もあったが、何より客の安全を守れない店だと世間に認識された、その事が問題だ」
「え、でもその、ラ、ラ、ら…なんとかさんが、自分で連れ込んだ人だったんでしょ?可哀想だけど、自業自得っていうか…」
「金を貰い客を預かる。それは客の安全も預かるという事だ。例え客が自ら蒔いた種でも関係なく、宿屋で客が襲われたならそれは宿屋の責任になる」
そういうものなのか。何となく納得いかない気もするが、それがこの世界の常識なのだから仕方無い。
「この辺りでの宿屋では、人が死んだ部屋は3年閉めておく…客を入れないのが普通だ。この部屋は家の一等部屋の一つだからな、迷惑な話だ」
「…って、私は?」
「お前は客じゃない」
まぁ、そう言うとは思っていたけど。いわくつきの部屋だと知っていたけど、ちゃんとした話を聞くとやっぱり気持ち悪い。ここで人が殺されたんだ。
「……で、それは良いけど、結局これ書いたの誰なわけ」
「俺が知るか」
さもどうでも良さそうな言い方だった。その事に、志真は少々むっとした。
「ちょっとは真面目に考えてよ、怖いじゃん。こういう陰湿な嫌がらせとかされるの」
「…お前、何か嫌がらせされるような事をしたのか?」
「そんなの分かんないよ。だって、言葉だって殆ど分かんないのに。あ、異世界人差別とかそういうの?」
ウィガーは一瞬押し黙った。何かあるのか。軽い気持ちで言っただけだったのに、ぎくりとしてしまう。ウィガーは気難しい顔をしたまま、ゆっくりと口を開く。
「はっきり言えば、そういう意識はある。この際、忠告しておくが、中には相当の悪意と嫌悪感を持つ者達もいる。そういう輩は何をするか分からないからな。お前も注意しておけよ。だが、これはそれとは別だろう」
あるんだ、やっぱり。日記に書かれた謎の言葉の事など、霞んでしまう程度にはショックだった。割りと優しくしてもらっていたから、安心していたのに。
「これはどちらかというと、この宿屋に対する中傷だから……おい、聞いているのか?」
私だって、好きでこんなところ来たわけじゃないのに。
「志真?」
「もう良い。今日は寝る!何か疲れた」
驚いたように目を見張るウィガーに背を向けて、志真は部屋へと歩き出した。あれ以上ウィガーと話していたら、八つ当たりをしてしまう。良くも悪くも、彼だけだから。ちゃんと話ができるのは。
「何だよ、何だよ、もう」
志真は柔らかすぎるベッドにもぐりこみ、枕をばふばふと叩いた。考えないように、見ないようにしていた不安が頭をもたげる。
こんなところで、本当にやっていけるんだろうか。
右も左も分からない、知り合いの一人もいない、言葉すら通じない、たった一人で。
「帰りたいよう」
言葉にしてしまうと余計に苦しくなった。何でこんな事になっちゃったんだろう。何がいけなかったの。考えたって分からない。
ずるずると落ちていきそうな思考に蓋をして、志真は眠る事にした。
寂しかったの
色々な人がいてくれたけど、本当に私をみてくれる人はいなかった
私を、本当に必要としてくれる人
俯いた顔は、長い黒髪に隠されてよく見えない。体にぴったりした黄色のドレスの袖から、病的に白くて細い腕が伸びていた。陰気な女だ。
か細い溜息が聞こえた。
一人で良かったの
たった一人でも、私の事を見てくれるなら、必要としてくれるなら。それだけだったのに
寂しい。
その思いに、志真の想いが重なる。寂しくて、寂しくて、辛い。俯いていた女が、ゆっくりと顔を上げた。痩せすぎてこけた頬へ髪が流れ、大きくぎょろりと血走った緑の目が現れた。
「怖っ!」
志真は跳ね起きた。心臓が煩く音をたてている。見知らぬ女の姿が、未だ脳裏にはっきりと焼きついていた。多分、ウィガーから聞いた話のせいで、こんな夢を見てしまったんだろう。
「……聞かなきゃ良かった、かな」
何も知らないでいるのも気持ち悪いけれど。志真は少しだけ後悔していた。夜だから当たり前の暗闇が、静けさが、今は不気味なものに感じられる。部屋の隅やらカーテンの影やらに、何かが潜んでいるような。
やめ、やめ。志真はシーツを手繰り寄せて、もう一度ベッドに潜り込んだ。さっさと寝てしまおう。




