菊乃の事件 3
余計な事を考えるな、そう言われても。
無理だった。あれは、忠告だったのだろうか、それとも単なる脅しなのだろうか。ハイネスの氷点下の眼差しを思い出すと、後者だったのだろうと思えてくる。悩むまでも無かった。
でも、どうしてあそこで菊乃の前に出てきたのだろう。質問に答えていないのにそのまま解放された理由は。異世界人と接触した事がまずかったのだろうか。思えばそもそもの始まりも、異世界人だった。
命の恩人が異世界人だったからというのが理由で、疑われたのだ。何故それが理由になるのか、菊乃にはいま一つ理解できない。
分かるのは、あまり異世界人と関わらない方が良さそうだという事だ。
何も分からないまま不注意な行動を取れば、自分だけでなく相手に迷惑がかかる。菊乃の事で、あの店員も問い詰められているかもしれない。菊乃の命の恩人である、大きな黒い豹みたいな人も。
何も無いと良いけど
ぐるぐると考えながら歩いていたのがいけなかった。背後から走ってきた誰かにぶつかられ、胸に抱いていた紙袋を取り落としそうになる。たたらを踏んで、踏み止まりほっと息を吐こうとした菊乃の耳に、今度は女性の叫び声が飛び込んできた。
「誰か、その人捕まえて!泥棒よー!」
地面に倒れながら手を伸ばして叫ぶ女性と、菊乃にぶつかって走り去っていく小柄な男の後姿。逃げていく男を、見回っていたジバに乗ったヤック達が追う。
ひったくりのようだ。
菊乃は慌てて自分の鞄に目をやった。肩掛けの鞄はちゃんと前にあり、中身も無事に入っている。
その時再び、背後から男性の怒鳴り声が聞こえた。
「泥棒だ!そいつを捕まえてくれ!」
また?
今日は何だか騒がしい。
巻き込まれないように、気をつけて帰ろう。
しっかりと鞄と卵の入った紙袋を抱きしめて、再び歩き始める。その時、菊乃の頭上に影が落ちた。またヤック……と最初は気にも留めなかったが、その影は動かなかった。
「?」
疑問に思い上を見上げた菊乃の目に、頭上に広がる網が映った。避ける暇も無く、それはあっという間に菊乃の体を覆う。
逃亡防止の犯人捕獲用の網!だ。
聞いた事はあったけれど、目にするのは初めてだった。初がまさか自分に対して投げられたものになるなんて、思いもしなかった。いくら考えてみても、犯罪なんて犯した記憶は無い。
何で?
混乱する菊乃の手足に網が絡みつく。それだけで終わればまだ良かった。網を引っ張られた拍子に倒れた菊乃の足が浮く。その一瞬で体が攫われ、浮かび上がった。網に体を押し付けたせいで、間にあった紙袋から卵が潰れる音が聞こえた。
ユーイの呆れ顔が浮かび、一瞬現実を忘れた。
買いなおさないと。これ以上遅くなったら、また嫌味を言われる。
しかし、その事に気を取られている場合ではなかった。
網に捕らわれたた魚のような格好で、菊乃は空へと引き上げられている。徐々に地面が遠くなるのが怖くて、思い切り網を握り締めた。ゆらゆらと揺れて、非常に心もとない。その上、網が皮膚に食い込んできて痛かった。
何でこんな事に
引ったくりの犯人と間違われたのだろうか。それともこれもユーイの嫌がらせの一環?どちらにしても、成す術は無い。
今、暴れて落ちてしまったら、怪我どころではすまないだろう。
すっかり小さくなってしまった建物を見下ろして、菊乃は震え上がる。
充分な高さまで浮いたところで、それは勢いよく走り出した。
「…………っ!」
怖くて声も出なかった。
急いでいるのか、かなりのスピードを出している。耳元で風がごうごうと音をたて、景色が風のように流れていく。まともに目を開けていられなかった。
まさか、途中で落とされたりは……
しないと思いたい。
風で網が大きく揺れる度に、心臓が止まりそうな思いをした。長く感じたが、それほど時間は経っていないのだろう。
ユーイの屋敷がある方とは逆の町の外れ、深い森の入り口でジバは止まった。3メートルほど下の草むらに、人が数人待ち構えているのが見える。全員、草に紛れる緑色の服を着て、頭に赤い布を巻いているようだ。
その中の一人が、こちらへ向って大きく手を振る。
「さっさと落とせ!時間が無い」
落とせ、と確かに言った。思わず網を握る手に力が入る。次の瞬間背中の毛が逆立つような浮遊感の後、網ごと落とされていた。
悲鳴も出なかった。
あっという間に近づく地面。思わず目を瞑ってしまったが、覚悟していたような衝撃は無かった。代わりに何かどろりとした冷たいものに沈み込む感触がした。どうやら下は浅い泥沼になっていたようだ。全身泥だらけになってしまったが、怪我をするのに比べればどうという事は無い。
何とか這い上がり、未だ絡み付いている網を外そうともがく菊乃の耳に、草を踏む音が聞こえた。
「無事とは運の良い奴だ」
「っていうか……こんなところにこんな泥沼、あったか?」
「あるじゃない」
「いや、だからさ……」
「うだうだ言っていないで、さっさと始末しちまおうぜ。警備隊の奴らが来ちまう」
男が5人に、女が2人。逃げ場を塞ぐように近寄ってくる。よく見れば、それぞれ剣やナイフのようなものを手にしていた。
「しかし小物だな」
「馬鹿、気をつけろよ、異世界人だ。外見で判断するな、何をするか分からねぇからな」
異世界人だと知られている。ますます血の気が引いていく。彼らの顔や言葉から、異世界人に対する嫌悪や侮蔑が滲み出ていた。ここに菊乃を連れてきたのは何の為か、など。問う必要も無さそうだった。
殺すつもりなのだ。
逃げないと。そう思うのに足が動かない。網が邪魔だった。それに、この人数を相手にとても逃げられるわけがない。無駄な気がした。ここがどこかも分からないし、町から随分離れている。例え、誰かが通りがかったとしても、菊乃を助けてくれるだろうか。
異世界人の菊乃を。
助けに来てくれる人の顔も浮かばない。思いつかない。誰も、菊乃が死んだとしても困らない、悲しまないに違いなかった。
その事が、一番哀しい。




