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菊乃の事件 4

 高い笛の音が緊迫した空気を切り裂いた。菊乃を追い詰める彼らの顔から余裕が消える。

「まずい、追っ手が来る」

 一番近くにいた男が、菊乃を見た。その『物』を見るような乾いた瞳にぞっとする。思わず後ろへ逃げた足が、再び泥へ沈んだ。びちゃん、と泥が跳ねる音が合図になった。

 すっと、男の目の色が変わる。

「早くしろ」

 その言葉に答えるように、男は動いた。手にしていた弧の形に曲がった大きな剣を構え、勢いをつけて足を踏み出す。反射的にに逃げた体が、バランスを崩してすとんと倒れる。泥の中に尻餅をついたまま、菊乃は顔を上げた。振り下ろされる刃に、光が反射する。

 自分の心臓の音が大きく早く響いて煩い。

 逃げられない。体の全てがその場に縫いとめられたように、動けなかった。


 頭の中が真っ白になる。


 死はもう避けられないもののように思えた。だが。

 それは、一瞬のことだった。

 男が切りかかってくるそこへ、飛び込んできた黒い影があった。菊乃の脇を通り抜けていった黒い風。

 なに、あれ大きい……動物?

 見覚えがある気がした。知っている、あれは、あれを最初菊乃は豹だと思ったのだ。

 しなやかに体を躍らせて、男の体を踏み倒す大きな黒い豹は、次々に男の仲間を倒していく。武器を器用に避け、前足で突き倒す、或いは強い顎で服を掴み投げ飛ばす。その『人』は、とても強かった。あっという間に、全員を倒してしまった。

 菊乃は言葉も無く呆然と、その尻尾が地面を叩くのを見た。


 あの人だ


 最初に菊乃の命を救ってくれた、異世界人。

(また、助けられた)

 これは、現実?それともまた夢でも見ているのだろうか。凄く自分に都合の良い夢。

 琥珀の瞳が振り返って、そんな菊乃を見つめる。

 静かな迎合は一瞬だった。

 光る何かが黒豹の前足を貫く。菊乃には何が起こったのかまるで分からなかった。察知していたらしいその豹も、体を跳ね上げたものの避けきれる事はできなかった。撃たれた足から鮮血を流しながら、豹は大きな体を低くして唸る。

 2番目の閃光が豹の肩の辺りを貫いた時、漸く菊乃は動く事を思い出した。

 絡みつく網を何とか引っ張り、崩れるような無様な格好で、地面へ伏せる豹へと走り寄る。来るな、とでも言うように、牙をむき出し唸る豹に構わず、その体に手を伸ばした。そっと触れた体は温かく、指先が震えた。これは、現実だ。地面を塗らす赤い血に、悲しみと怒りが湧き上がる。

 遠巻きに様子を見る人々へ視線を巡らせる。彼らが一体誰なのか、何故菊乃を殺そうとするのか、分からない。


「貴方達は、誰なの。どうしてこんな事をするの」


 震える声は、徐々に力を取り戻す。

「私が気に入らないなら、私だけにして。他の誰も、傷つけないで。お願い。この人を殺さないで」

 手を広げても、大きな『豹』の体は隠せないが、それでも出きるだけ手を伸ばして自分の体を盾にする。弱い菊乃にはこんな事くらいしかできない。すぐに来るだろうと覚悟していた閃光は中々やってこなかった。その事に、菊乃よりも襲って来た男たちの方が戸惑っている。

 森と、菊乃達を見比べて、再び落ちた武器を拾う。それを目にした『豹』が低く唸った。手を伸ばした菊乃の肩へと顔を上げ、ぎらぎらとした目を男に向ける。

「だ、駄目!」

 止めようとしたが、力で勝てる相手ではなかった。傷ついた体を引きずって、あっさり菊乃の体を飛び越えていってしまう。怪我のせいで先程よりも動きが悪い。それでも負けはしなかった。向かってきた3人を次々と倒していく。

 固唾を飲んでその様子を見つめていた菊乃は、離れた場所で動く女に気がついた。弓に矢を番えて、狙いを定める。声を上げようとした時にはもう、矢は放たれていた。


「やめて!」


 どくん、と大きく心臓が音をたてた。

 胸の内で暴れる熱い何かに、一瞬目の前が白くなる。

(何これ)

 体の内部を焼ききられるような痛みが過ぎ去ると、全ての音が消えた。煩く聞こえていた心音も、風の音もしない。目の前の景色がゆっくりとコマ送りのように流れていく。青い空に舞う自分の黒い髪、投げ出される腕。それらを見て自分が仰向けに倒れていると気がついた。

 背中に当たる地面は、柔らかく菊乃の体を迎え入れる。沈む……、そこで、それが地面ではなく水である事にきがついた。青い空に飛び散る水飛沫、ぶわっと広がる沢山の白い泡が徐々に消え、歪んだ景色が見えた。水の中、だから……、


 水?


 疑問を感じた瞬間に、消えていた感覚の全てが戻っていた。

 途端に水を思い切り飲み込んでしまい、苦しくなってもがく。何か覚えがある場面だ。だが今度は溺れる事は無かった。足がすぐに地面についたからだ。水面から顔を出して、菊乃は暫くむせていた。

 荒い息を落ち着けながら、顔を上げる。

「………」

 先程まで平地だったところが、何故か広い湖になっていた。場所が変わったわけではないようだ。離れた場所で、やはり呆然とする赤い布を被った男たちがいる。そして、いつの間にか黒い豹が菊乃のすぐ近くにまで来ていた。

 1メートルほどの距離を開けて止まり、こちらを伺うように見上げる。

 菊乃を見上げる蜂蜜のような色の瞳は、静かで穏やかな色をしていた。口を開きかけたところで、四角い影がさっと横切っていった。

 ヤックだ。

 反射的に緊張し、見上げると四角い板のような乗り物がゆっくりと高度を下げていた。乗っていた人物の姿を確認して、菊乃は思わず声を上げる。

「ハイネス、さん?」

 薄い銀髪に褐色の肌の男は、菊乃を一瞥した後に言った。


「全員、動くな」


 特に大声を出したわけでもないのに、その声は重く響いた。動けば殺す、そんな意思を受け取って、菊乃は硬直した。

 遅れて飛んできたヤック達が、次々と犯人捕獲用の網で赤い布の男たちを捕らえていく。勿論、今度は菊乃に向って投げられる事は無かった。

「俺は異世界人対策本部ケラスの治安維持部隊所属、ハイネス・ユーゴ」

 凍て付くような鋭い眼光が、その場の全ての者へと向けられる。

「異世界人の誘拐、及び襲撃の現行犯。更にここ最近の異世界人殺傷事件についての容疑でお前達の身柄を拘束する」


 被害者の立場である筈の菊乃まで、睨まれているのは気のせいだろうか。


「お前はよくよく面倒を起こす」

 気のせいではなかった。

 問答無用で謝りたくなるような冷ややかな空気が漂ってくる。

「ごめんなさい、あの、ありがとうございます」

 反射的に頭を下げる。下げて気がつくのは、こちらの世界では頭を下げるという行動は一般的ではないらしいということ。忘れていた。気まずく視線を落としたまま、言うべき言葉を捜す。

 視線を下げた事で、濡れて光る黒い毛並みが目に入った。肩まで水に浸かった状態で見えないが、彼は怪我をしているのだ。

(そんなこと、今頃思い出すなんて)

 慌てて菊乃はハイネスを見上げた。

「この人が、私を助けてくれて、その時に怪我を」

「ハルラック・エジだな」

 途中で言葉を遮られた。

 ハイネスの視線は菊乃を通り越し、背後の黒い豹へと向けられている。ハルラック・エジと呼ばれた黒豹も、同じようにハイネスを見ていた。知り合いなのだろうか。だがなんというか、知り合いというには寒々とした緊張感が漂っている。

 次の言葉は、菊乃の予想しないものだった。

「保護法により、永住の権利を与えられていない保護期間中に、異種の力を行使する事は禁じられている。規定により、お前の身柄を拘束する」


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