各務兄弟の場合
「こりゃ、何の冗談だ」
夕暮れ時の賑やかな商店街から、いきなり灼熱の砂漠へ様変わりした景色。変わったのが景色だけだったら良いのだが、気温も急上昇している。照りつける白い太陽も容赦ない。このままでは、日焼けで酷い事になる。だがここは見渡す限りの砂の海で、時々ぽつんと枯れたような植物しか見当たらない為、日光を避ける場所はなかった。
じりじり肌を焼く熱に、流れ落ちる不快な汗。
やけにリアルな夢だ。
真っ赤な顔で汗を拭いながら痩せすぎの青年、各務伊吹はそう思っていた。商店街がいきなり砂漠に変わることなんて、有り得ないことだ。伊吹の頭がおかしくなっていて、幻覚でも見ているのなら話は別だが。
伊吹はこれを夢だと信じている。だから、隣で喚いている男の事を冷めた目で見る事が出来た。
無駄に背が高く、伊吹とは正反対に鍛えられ、短気で喧嘩っ早くてしかもバカのように強い男。彼にとっては厄介この上無い、3つ上の兄である各務吹雪のことを。
「こりゃテメェの仕業か、伊吹!」
なんて叫ぶバカな男は、所詮夢の中の住人だ。商店街をいきなり砂漠に変えるなんて真似を、どうやって実現したというのだろう。
「あんまりバカな事言わないで欲しいな。いくら夢の中でも」
「はぁ?夢?」
「そうそう。夢って事は分かってる。だってこんなの現実であるわけないだろ。さっさと覚めると良いけど」
「…夢、これが?」
吹雪は目を細くして、辺りを見渡している。相変わらず凶悪犯のような人相だ。
「にしては、リアルだな。実際、くそ暑いし…。さっきから目や口に砂が入って気持ち悪い…最悪だな。何でこんな夢見るんだ?」
夢の住人である兄はぶつぶつと不満を述べている。何だか少し違和感を感じたが、暑さで頭がくらくらしていた伊吹に深く考える気力は無かった。
砂漠を脱出しようという考えは起こらなかった。これは夢なのだから、何とかして夢から覚めれば良い。それで終わる。
夢ならばいずれ覚めるだろう。
そして夢は覚めなかったために、兄弟は熱中症で危うく死に掛けた。間一髪で捜索隊が間に合わなかったら、伊吹は死んでいたことだろう。助かった事が良かったのか悪かったのが、伊吹には分からないが。
「体の具合はどうですか?」
違和感の無い日本語で話しかけてきたのは、眼鏡をかけたすっきりした顔立ちの女性だ。名前をリザレット・クラウラと言って、この世界で数少ない日本語習得者である。
「はぁ、何とか」
冗談みたいな話だが、伊吹と吹雪は異世界に来てしまったのだ。1週間ほど寝込んでいた伊吹は、その話を聞いて再び1週間ほど寝込むはめになった。我ながら脆弱な神経である。しかしどうしても受け入れがたい話だった。
伊吹は淡白な人間だった。あの世界にも、友人、家族にもそれほど執着があったわけではない。多少寂しいような気もするが。
それよりも、読んでいた漫画や小説の続きが気になってしょうがなかった。それと、部屋にあるパソコン、中学2年生の時からつけていた日記など、人に見られたくないものの行方も気がかりだ。リザレットの話を信じるなら、あの世界に伊吹という人間は存在しなかった事になっている筈で、消えた人間に関係する事物もそれと認識されなくなるとの話だった。だとしたら、誰にも見られる心配は無い、のだが。
一抹の不安は消せない。
「まだ顔色が悪いですね。もう少しここで休んだ方が良さそうだ」
元より病人みたいな顔色なのだが、伊吹は神妙に頷いた。すっかり慣れてしまった狭い療養室の外へ出る勇気は、まだない。
伊吹は、あちらの世界でも殆どひきこもり気味の生活を送っていた。一応大学には行っていたが、講義が終わると家へ直行し部屋へ篭るような毎日だった。あの日は偶々、母親に頼まれて買い物に出ていたのだ。
〔こより〕の仏壇に供える花。
それを買いに出ていて運悪く吹雪と鉢合わせしたのだ。花屋の近くで足止めされなければ、こんな事にはならなかったかもしれない。
しかしこうなってしまった事は、両親にとっては良い事かもしれない。半ひきこもりの伊吹や、揉め事ばかり起こしている問題児の吹雪。家族の足を引っ張る二人の厄介者がいなくなれば、心労も少しは減るに違いない。
瑞希と葉月。二人の妹と両親はきっとうまく家族をやっていくことだろう。
「貴方のお兄さん」
え、と伊吹は顔を上げた。
「気になりませんか?どうなったのか訊ねないのは、意図的にそうしているのですか」
「…あまり、仲良くないので、それにどうなったって言われても、あれじゃあ…」
「助からない、と?」
「?…そりゃあ、普通助からないと思います。この世界の人間はどうだか知りませんが、僕の世界の人間はあんな事になったら死にます」
あの後、熱中症で倒れた後の事だ。意識が朦朧としていたが、確かに伊吹は見た。突然巨大な鯰のような生物が現れた。砂の中を泳ぐようにして現れた砂色のそれが、あっという間に吹雪をまる飲みにすると、再び砂の中へ潜っていったのだ。
呆気ない最期だった。
暴力的で短気で、好きになれない兄だったが流石に少し可哀想な気もする。妙な場所で怪物に食べられるなんてついていないどころの話じゃない。消えてほしいとは思っていたが、死んでほしいとまでは思っていなかった。ただ自分と関わりのないところに行ってくれれば。
砂漠で怒鳴っていた兄を思い出す。あそこで変な怪物に食べられなかったら、今もここにいたかもしれない兄。そんな『もしも』を想像して、伊吹は顔をゆがめた。
きっと無茶な事で伊吹に怒りをぶつけ、ここの人達と揉め事を起こし、心証を悪くするのだろう。それを思えば、いなくなって良かったのかもしれない。
「砂漠の捜索は続けられていますが、今のところ手がかりは見つかっていません。ゾイ…貴方の兄を飲み込んだ生き物ですけど、それを一匹一匹捕まえて腹を裂くわけにもいきませんし、捜索は難航しています」
今更見つかったところで、とっくにあの怪物の栄養分になっているだろう。無駄な事をするものだ。
黙っている伊吹に、リザレットは探るような目を向けた。
「?」
何だろう。もしかしたら、ここで唯一の肉親の筈の相手に対して冷たすぎるとか思われているのだろうか。人間性を疑われているのかも知れない。まずいだろうか。ここで彼らの心証を悪くするのは、得策ではない。だが、悲しんだり取り乱したりするふりをする気にはなれなかった。
「難しいですが、手は尽くします。何か分かったら、貴方にも報告がいくようにしましょう」
「……どうも」
「では、ゆっくり体を休めてください」
リザレットが部屋を出て行ってようやく、伊吹は肩の力を抜いた。
これからどうなるんだろう。
そればかりが不安だった。




