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坂巻菊乃の場合

 その日菊乃は何となく商店街へ足を伸ばした。何か欲しい物があったわけではない。ただ何となく、家へ真っ直ぐ帰りたくなかったからだ。

 家へ帰りたくない。とは言っても、それほど真剣に帰りたくなかったわけではなかった。ほんの少し遠回りして、帰る。つもりだった。

 坂巻菊乃は、小さく溜息を吐く。

 今はもう、帰りたくても帰れなくなってしまった。流石に1週間という長い時間を過ごせば、これが夢ではない事は実感できる。そして、リザレット・クラウラという少しきつい顔の女の人が言うには、菊乃は同調現象というものに巻き込まれてここ異世界へと紛れ込み、更に二度と帰れないらしいのだ。

 非情に困った事態だが、人為的なものでなく突発的な事故のようなものだと言うなら、誰かを責めるわけにもいかない。

 都合よく帰れる方法が見つかれば良いのだが……、最初はそう思ったが、思い直した。もしかしたら、これは良い事かもしれない。菊乃がこの世界へ着てしまったのと同時に、向こうの世界での菊乃の存在は忘れ去られた。それならば、菊乃がいなくなった事を悲しむ人も、心配する人もいないという事だ。

 2ヶ月前にバツイチこぶ付きで再婚を果たした母だったが、こぶである菊乃がいなかった事になればただのバツイチ。新婚生活はもっとスムーズにいくであろうと思われた。

 その結論に達した事で、菊乃の気持ちは幾分か楽になった。

 いつもと同じように現れて、同じような説明と説得を繰り返すクラウラに、菊乃は短く分かりましたと伝えた。

 少なからず驚いた様子で、クラウラは探るような眼差しで菊乃を見つめる。

「随分と、冷静ですね。人形のように黙り込んでいるのは、ショックを受けているせいだと思っていましたけど…」

 今まで殆ど黙り込み、泣きも笑いも怒りもしなかった菊乃の本意を、クラウラは掴みかねているようだった。

「何が起こっているのか、まるで分からなかったので、ちゃんと話を聞くべきだと思ってそうしていました。突拍子も無い話ですが、どうやら夢でも無いようなので」

「その通り。これは現実です」

「理解しているつもりです」

 念を押すクラウラに、菊乃ははっきりとその意思を伝えた。

「教えてください。私はこれからここで、どうやって生きていけばよいのですか?」

「……ここを出たら、取り敢えずの住むところと保護者が与えられます。そこから、働きながら学校へ通ってもらう事になるでしょう。卒業し、5年の観察審査を終了すれば、市民権が与えられます。異世界人であっても」

 放り出される事は無いと分かって、安堵する。親の庇護の元生活していた菊乃が、いきなり右も左も分からない異世界で自立するのは無理だと、自分でも分かっていた。

「ですがその前に、ここを出るための審査に通らなければならない」

「?」

「この世界にとって、貴方は安全であると証明する必要がある」

 腕力も体力も少ない菊乃のような子どもの、何を警戒しているのか。小さなテーブルを挟んで向こうに座るクラウラの顔は、どこか冷たく厳しいものだった。

「サカマキキクノ。貴方がこの世界へ落ちたのは、本当に偶然ですか?」

「……どういう意味ですか。事故だと言ったのは貴方の筈です」

「そう。いつもの同調現象、だった筈。今のところおかしな点は見つかっていません。貴方が一番最初に接触したのが、異世界人である以外は」

 一番最初……

 菊乃は記憶を巡らせた。あの時、それが起こった際、商店街をぼうっと歩いていた菊乃は、その異変にすぐに対応できなかった。軽い眩暈を感じながら、一歩足を踏み出した先に地面が無かった。ひやり、と冷たいものが背筋を走る感覚。見開いた目に飛び込む青。何が起こったのか分からぬまま、菊乃は海に落ちていた。

 幸いだったのは、それほど高いところから落ちたわけではなかったこと。思い切り海面に腹を打ったが、痛みを感じる程度で済んだ。ただ、その後が問題だ。

 菊乃は泳げないわけではない。だが、いきなり何の心構えも無いまま海に落ち、颯爽と泳ぎ始める事はできなかった。目視できるところに、白い砂浜が見えたような気もする。だが、パニックを起こしていた菊乃はそこで溺れていた。

 何が何やら分からないが、死を覚悟した時、菊乃を助けてくれたのは、

「異世界、人?」

 菊乃の2倍はありそうな黒い豹だったのだが。その後に出会った人だろうか。その辺の記憶は曖昧で、あまり覚えていなかった。

「溺れる貴方を救った者です。知人ですか?」

 どうやらクラウラが言っているのは、黒い豹のことらしい。

「いえ……知らない、ですけど」

 その会話に激しい違和感を覚えつつも菊乃は素直に返答した。豹に知り合いはいない。こちらの世界では、動物と人の区別は無いのだろうか。

「本当に?」

「…はい。その、つまりあの人は、私と同じ世界から来た、異世界…人なのでしょうか?」

「違いますよ。貴方の世界にはああいう人種はいない。それは分かっています」

 こっちはさっぱり分からない。

「貴方方が別々の世界から来たという事は、承知してます。ですが、同調現象というのは滅多に起こるものではなく、この国にいる異世界人の数も限られている。それなのに、偶然同調現象で落ちてきた異世界人を、偶然同じ異世界人が助けた。勿論絶対にありえないことではない、ですが可能性としては限りなく低い。それが起こったことに、私達は注目しているのです」

 そんな事を言われても困る。それが正直な菊乃の気持ちだった。クラウラが何をそこまで気にしているのかも理解できない。

「私達は、ほんの少しの『おかしなこと』も見逃す事はできないのです。サカマキ・キクノ」

 今この世界にいるという事事態が、菊乃にとってはおかしな事だった。ちょっとどころではなく、とんでもなく。

 けれど、菊乃は理解してもいた。とにかく彼らの菊乃に対する疑いを晴らさない限り、自由は無いということ。問題は、一体何を疑われているのか分からないことだ。


 でも


 あれは、秘密にしておいた方が良さそうだ。心の中で考える。こちらへ落ちる前、足を踏み外すほんの一瞬前に誰かに呼ばれたような気がした事。ただの気のせいかもしれない。だが、疑われるようなおかしな事は、なるべく少ない方が良い。

 慎重に行動した菊乃だったが、実際に自由を得るのはそれから随分先の事となる。


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