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灰谷志真の場合

 気がついたら男湯にいたんです!

 果たしてその主張が通るか否か、灰谷志真は真面目に考え込んでいた。事実なのだが、非常に嘘っぽい。苦しい言い訳に聞こえる、下手をすればちょっと頭のかわいそうな人のようだ。

 当事者の志真にしても、未だに信じられない。自分の頭が不安になってきているくらいだ。ひょっとして、あれか、気が付いていなかったけど多重人格者だったりするのか。それにしてもこんな事態は初めてだ。

 だがしかし、梢がいる。

 梢がきっと一緒にいた事を証言してくれるだろう。時間帯を照らし合わせれば、きっと疑いも晴れる。晴れなくても、何か分かるだろう。きっと、多分。ここがどこだか分からないが。

 志真は頬杖をついたまま、溜息を吐いた。そこは3畳位の狭い部屋だった。テレビでよく見るような取調室とは雰囲気が違う。明るいライトグリーンの床と、同色の机と椅子。壁や天井は白く、壁の上方四隅に四角いライトがついていた。机の上には丸いクッキーのようなものと、白いカップに入った匂いのきついハーブティー。

 ドアが二つあったが、下手に動くと怒られそうなのでじっとしている。

(ここ、どこなんだろう)

 ぼんやりとした不安があった。

 商店街を歩いていて、気がついたら男湯にいた。それだけでも訳が分からないが、その後も。騒ぎに気がついた店の人が出てきて、志真を外へと連れ出した。何やら怒鳴られていたのだが、その言葉がまるで分からなかった。

 混乱していたせいだろうか。

 その後、白地に青い刺繍の入ったマントをつけた、おかしな人達がやってきて志真をここへ連れてきた。

 彼らの交わす言葉も、やはり分からなかった。格好も変だった。金髪に青い目に、緑の目。顔立ちも日本人離れしていた。外国の人、だけど喋っていた言葉は英語ではなかった。詳しくは知らないが、ドイツ語やイタリア語でもなかった。多分。

 異常だ。

 薄々と、事の重大さに気がつきかけていた。

 そもそも、突然あんなところにいた事事態が。

(……梢)

 志真は手の中の携帯を見つめた。さっきからずっと圏外だ。せめてこれが繋がれば、とさっきから祈っているのだが。


(うち、帰りたい)


 心細かった。

「失礼」

 俯きかけていた志真は、弾かれるように顔を上げた。眼鏡をかけた痩せすぎの感のある女性が、分厚い書類を手に部屋へ入ってくるところだった。背中の半ばまである黒髪を、首のところでひとつに纏めた、化粧気の無い女性。何となく、厳しそうな人だと感じて、緊張が高まる。

「お待たせしました」

(に、日本語だ)

 良かった。安堵で、全身に入っていた力が抜ける。

 眼鏡の女性はてきぱきとした仕草で書類をおくと、志真の前に座った。細い、緑色の瞳がじっと観察するように見つめてきて、居心地が悪い。

「あ、あの、私何というか、あんなところに入るつもりは全く、ですね!」

「わたしはリザレット・クラウラ。今回、貴方方に起きた世界喪失現象に対しての調査と、補佐をさせて頂いている異界人保護委員会の者です。以後、よろしく」

 言い訳を遮っての言葉に、咄嗟に反応できない。

(りざ、何……?せかいそうしつ現象?)

 男湯への侵入について責められなかった事だけは、理解できた。

「えっと、あの」

「まずは、私の話を聞きなさい。ざっと説明しますから、質問は後に。ああ…、先に貴方の名前を頂いておきましょうか」

「は、灰谷、志真です」

「では、シマ。貴方の身の上に起こった現象について説明させていただきます。どうか、落ち着いて最後まで静かにお願いします」

 その言い方に、自然と眉が寄る。何か聞くのが怖い。しかし、聞かなければ何も分からないままだ。

 そんな志真を、彼女は静かに見据えた。


「貴方は今、不幸な事故によって別の世界に来ています」


 志真は言われた通りに静かにしていた。というか、反応のしようが無かったのだ。言われた言葉の意味がいまひとつ、伝わってこなかった。この人、大丈夫だろうか。それが最初の感想だった。

 訝しげな表情を浮かべる志真から視線を外さず、女は続ける。

「通常は重なる事の無い『世界』同士が繋がる、その現象をわたし達は同調現象と呼んでいます。長くても数十秒ですが、その時間帯は非常に危険で、稀に貴方のように本来いるべき世界から、繋がった別の世界へと来てしまう者がいるのです。滅多に起こる事はありません。そもそもこの同調現象が起こる事自体が稀で、18世界…と、これは私達の貴方の世界の呼び名です。その18世界と繋がる事に限れば30年に1度程度でしょうかね。それもたった数十秒程度で、範囲も精々が数メートル。無人の場所で起こる事も多い」

 ですが、と更に言葉は続く。

「今回は、特に人の多いところで発生したようです。こういう場合、稀に間の悪い人間が引っかかってしまう。勿論、普通ならば属する世界からの引きが強いわけで、問題など起こらない筈なのですけどね。時々、繋がりが薄くなっていた人間なんかが、間違った方を選んでしまう。それが、世界喪失者、つまり、貴方ですね」

 じわじわと不安が広がる。何だか分からないが、この人は本気だ。

「簡単に言ってしまえば、ここは貴方が知るどの国でもなくて、世界でもない。異世界というやつです。言葉、分からなかったでしょう?私は、貴方のような者を補佐するために、18世界の言葉を覚えていますが。貴方に理解して欲しいのは、貴方は二度と戻る事が出来ないということです。あの世界にも、家にも二度と帰れない、それをまず分かってください」

 言葉が出なかった。

 帰れない?この人は何を言っているんだろう。

「水が、高いところから低いところへ流れるように、こちらから貴方の世界へ人が流れる事はない。逆はあっても。来た者は帰れない、少なくとも今のところその方法は見つかっていません。諦めてください」

「あ、諦めてくださいって、そんな。帰さないとか言われても」

「帰さないではなく、帰れない、ですよ」

「で、でも!帰らないわけにはいかないよ、皆、心配してるだろうし、私だって嫌だよ!帰りたい!」

 眼鏡の女は、僅かに目を細めた。

「心配は、していないでしょうね」

「な、何言って……」

「世界を喪失した者に付随する現象がありまして。世界から喪失された人間の事を、その世界は認知できなくなるのです。いなくなった事すら、認識できなくなる。痕跡があっても、誰も気がつく事ができない。無いものを見る事はできないから、何でしょうかね」

 ことり、と目の前に何かが置かれた。

 長方形の、2ミリ程の薄い透明な石だ。石の中に何かが映っている。はっとした。それは、あの夕暮れの商店街だった。数人の人間に混じって、志真と梢が歩いている。

「分かりますか。これはあの瞬間の記録です」

「梢」

 声は聞こえない。少し志真が遅れて、梢が呼ぶ。はっとしたように足を踏み出した瞬間、志真の姿は消えた。食い入るように見つめる志真の目に、首を傾ける梢の姿が映っている。

 不思議そうに、どこか不安そうに辺りを見渡して。

 明らかに反応が薄かった。目の前で友人が消えたというのに、何だか。

 そうして、何事もなかったかのように歩き出す。


 志真が消えたことなんか、まるで知らないみたいに。


「な、なんで…」

「あなたが世界から消えたから。そして、彼女は貴方を認識できなくなった。貴方の家族も同じでしょう。友人も、知人も、全てから貴方は思い出される事は無い。あなたは世界を失ったんですよ」


 その日からの事はあまり覚えていない。

 ずっと寝ていた事もあったし、食事を取らなかったり、暴食してみたり、暴れた事もあったかもしれない。その間中ずっと考えてはいたが、やはり理解できなくて、しかし現実は変わらなかった。

 携帯は圏外のまま充電が切れていた。

 裏切られた気持ちになっていた。梢の目の前で起こった事なのに。志真が消えた事にすら気がつかない、いなくなった事を、ずっと誰にも。

 そんなの、信じられなかった。信じたくなかった。

 頑なに拒否する志真に対して、リザレット・クラウラは根気良く説明を繰り返した。怒りも哀れみも無い、鉄面皮でくどくどと同じような説明でもって、志真に信じがたい現実を突きつける。

 気がついたら一月経っていた。

 状況が変わらないまま、誕生日を迎えて16になって。

 それで観念した。


 いつからか、決めていたのだ。

 誕生日になっても状況が変わらないようなら、夢から醒めないようなら、もう諦めようと。観念して、現実を受け入れて、どうするかを決めよう。


(まぁ、決めようって言ったって)


 選択肢は限られている。


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