伊吹、現実に打ちのめされる 2
「伊吹、具合はどうですか?」
「問題ないです」
朝、様子を見に来た医者の問いに、伊吹は笑顔を滲ませて爽やか(自分なりに)に答える。
貧血を起こした後だ。大した事は無かったので部屋に戻されたが、退所を控えている時期でもあるから、伊吹の体調は慎重に調べられる。元々、体が弱いと認知されているから余計に。いつもなら、体感の3割り増し程具合が悪いふりをするところだ。逆を装ったのは初めてである。
気持ち悪い、胃が痛い、食欲が無い、頭が痛い。
しかし、ここで体調を崩してしまえば、下手をすると退所延期になる恐れがある。
それは、嫌だ。
施設内で殺されかけた異世界人がいる、という事実は大いに伊吹を動揺させた。一晩で3回ほど自分が殺される夢を見たし、色々悩んだりもした。
既に実行犯はいないのかもしれないが、まだ隠れている可能性も否定できない。ここですらそのレベルだという事は、一体外とはどんな恐ろしい事になっているのか。それでも、1度外へ出てみようと決めた。
百聞は一見にしかず。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
良いだろう、色々とこの目で確かめてやろうじゃないか、と。伊吹にしては前向きな姿勢になっている。
ついでに、もう一つ。
同じ立場にある筈の異世界人達に会っておきたかった。自分よりも長くここにいる者達ならば、もう少し色々知っているかもしれない。
「明日、だな、イブキ」
「ああ、明日だ」
出所前日も、伊吹はシエンゾの農園を手伝っていた。すっかり入り浸っている為、随分懐いたのねとリチルに笑われているが、実際のところ、彼だけがこの施設内で唯一信頼できる相手だっただけに過ぎない。
ずっと良くしてくれているリチルのことすら、完全に信じきることができなかった。
リチルはあの時、気がついていたんじゃないだろうか。伊吹が既に意識を戻している事を知っていて、わざと動揺させるようなことを言ったのではないか。笑顔の裏に、別の顔を隠し持っているのではないか。疑い出すときりが無い。
馬鹿げているとも思う。だが一方で、そんな筈がないと言い切ることもできなかった。
「イブキ」
枯れ木のような長い腕が伸びて、固い指の先が伊吹の額を宥めるように撫でる。
「頑張れ。必ず、道は、見つかる」
「……ああ」
彼には聞きたいことが山ほどあった。
シエンゾは異世界人であり、既に40年という長い時間をここで過ごしているのだ。
ここにいる事を、シエンゾは隔離と言った。
彼はここに隔離されているのだろうか。外に出る事を望んでいるのだろうか。スイとエーデとは一体誰のことで、その人達はどうなったのか。
しかし、殆ど聞けていない。この農園にいるのは彼らだけではないし、どこかで話を聞かれている可能性もある。下手をすれば、彼の立場まで悪くなってしまう。結局当たり障りのない話をするしかなかった。
心残りではあるが、危険は冒せない。
「シエンゾも、元気でな」
また来るから、とかいう言葉は何となく死亡フラグになりそうな気がしたので、止めておいた。十中八九、死ぬのは伊吹の方だろう。
翌日、予定通り施設を出る事となった。
簡単な診察を受け、必要な荷物を受け取り、世話になった職員に挨拶して門へと向う。見送りには、リザレットとリチルが来てくれた。
「イブキが行っちゃうと寂しくなっちゃうわ」
眉毛を八の字にして、リチルが言う。リザレットから3歩ほど後ろを、2人は並んで歩いていた。いつもは纏めているオレンジ色の髪を、今日はふわりと流している。サイドの髪をゆるく編んで後ろで結んだリチルは、いつもと違った雰囲気に見えた。
清楚なお嬢様風。
しかし、口を開けばいつもと同じ、明るく溌剌としたリチルだった。
「ご飯はちゃんと食べてね。イブキはちょっと食が細すぎるから、前みたいに倒れちゃったりするのよ。あの時、本当に心臓が止まるくらい吃驚しちゃったんだからね。ここを出たら、もう私も看てあげることできなくなるし、心配だわ」
「大丈夫。ちゃんとやります」
「本当に?」
首を傾けて、伊吹を見上げる。疑わしそうな目を向けられた。
「イブキは真面目だと思うけど、どこか信用できないのよね」
ぎくりとした。
冷たいものが首筋から下へ抜けていく。
信用、できない?
何か疑われるような事をしたか?心当たりが有りすぎて困る。動揺する伊吹に対して、リチルは唇を尖らせた。
「不養生だし、頑張りすぎるし。もうちょっと自分の体を労わってあげないと」
何を言われるかと身構えていた伊吹は、軽く目を瞬いた。
「え……」
「ちゃんと聞いてる?それとも、聞き取れなかった?まだまだ言葉の方も不安なのよね。本当に大丈夫なのかしら」
ぶつぶつと、最後は独り言のような呟きまで、伊吹はしっかりと聞き取っていた。多少の罪悪感が湧く。彼女が考えているよりも遥かに、伊吹は言葉を理解していた。
「2人とも」
気がつけば、大分先に進んでしまっていたリザレットが、こちらへ冷ややかな視線を送っている。2人は顔を見合わせると、慌てて駆け出した。
広い敷地の終わりに、背の高い門があった。正面ではなく、裏門だ。いつもは閉じられている鉄柵が、今日は開かれていた。
先に出たリザレットに続き、伊吹も門をくぐった。おかしな程緊張していたが、特に何かあるわけでもなく。あっさりと。
裏門の前は公園のようになっていた。広々とした芝生と、合間を縫う平らな道がどこまでも続いていて、どこまでも見渡せる。遠くに緑の森が見えた。施設と公園の間に通る道は赤茶のタイル。きらきらと光っているのは、何かを混ぜているせいか。一見滑りやすそうだが、足に吸い付くような感触でその不安は無さそうだった。
「まだ来ていないようですね」
リザレットが固い声で呟く。迎えにはウィガーが来る事になっていた。
「まぁ、まだ約束の時間まで20分ほどありますが」
きっちりしているようで、意外といい加減な女だ。
「大丈夫よ、イブキ。来るまでいてあげるから」
「リチル、仕事の方は良いのですか?」
「今日はお休みなんです」
なるほど。
だからいつもと格好が違うのか。髪型だけでなく、ふわりとした長めのスカートや、花の飾りがついた明るい色のショールなど。女性らしい、しかし動きにくそうな服装だ。
「ねぇ、イブキ」
再び伊吹を見上げたリチルが、何か言いかけた時だった。
耳に不快な警報音が鳴り響く。伊吹達は一斉に、音の聞こえる方へ顔を向けた。真っ先に目に付いたものは、煙だ。施設の、壁の傍で何かが燃えている。
何だ?
激しくゆらめく赤い炎に、すっかり気を取られていた。風を切る音を耳が拾うと同時に、肩に焼け付くような痛みが走る。間をおかず、次は足に。
「イブキ!」
苦痛に呻きながら倒れこむ伊吹の耳に、リチルの悲鳴が聞こえた。柔らかく、暖かい何かが、倒れこんだ自分に覆いかぶさってくる。
力の抜けた白い指先が、だらりと目の前の地面に投げ出されていた。
そこから先のことは良く覚えていない。
ただ、怒鳴りあう声が響く騒然とした中で、良く知っている人間が、伊吹の名を呼ぶのを聞いた気がした。




