伊吹、現実に打ちのめされる 1
のらりくらりと逃げていたが、ついにその日はやって来た。
この保護施設を出て異世界の社会という未知すぎる場所へ踏み出す日だ。能面のように表情を固めたリザレットに『5日後に』と告げられて流石に嫌とは言えなかった。自分よりも遥かに年下の少女が、既に外で生活をしていると聞いてしまったら尚更だ。
告げられた日、伊吹は眠ることができなかった。
不安はつきない。色々と勉強もしたし、言葉も大分覚えてきている。日常生活で困る事は無いだろう。支度金は出るし、種を売った金もある、住むところも決まっている。
知り合いでもあるウィガー・ハルベルトの実家である宿屋だ。
ついでに例の同郷の女子高生がいるところ。
はぁ、と伊吹は溜息をついた。
外へ出ても大丈夫なんだろうか。
昔から、異世界人が多く迷い込んでいたというこの国、アティカ。
長い歴史の中で争う事も多かったが、最終的に共存という道を選び、保護という形を取るようになった。現在では異世界人との混血も珍しくないところまで、人々の意識は変わってきている。
心配ありません、とリザレットは能面顔で伊吹に語った。
うそ臭いことこの上ない。
アティカは、5つある大陸の1つ全てを領土としている大国らしい。大きく13のエリアに分かれていて、それぞれの場所を王から任命をうけた人が管理している。
伊吹が今いるこのエリアはノウラナハーンとかいう名前らしい。世界で唯一、異世界を観測できる場所であり、この国に落ちてきた異世界人を保護する場所にもなっている。
伊吹が最初に来たあの砂漠は、エクアとかいうエリアの端で、ここから大分離れた場所だったらしい。その為、保護するのに時間がかかってしまったのだ。散々な目にあったが、生き延びられただけ、運が良い。迷い込み、命を落とす者は珍しく無い。吹雪のように。
まぁ確かに運が良かったとは思う。
食われなかったし、助けられた(危なかったが)、その上予期せぬ収入も得た。
(しかし、どっかに落とし穴がありそうな気がするんだよな……)
呑気に喜ぶよりも、不測の事態に備えたい。何せここは異世界。何があるか想像もつかない。
「顔色が悪いですね」
部屋を訪ねてきたリザレットは、書いたような眉を顰めてベッドの上の伊吹を見下ろした。
「昼間から怠惰に眠っているのは、感心できない」
「ちょっと、具合が悪いので」
「食事を殆ど食べず、ろくに睡眠を取っていなければ、誰だって具合が悪くなります」
睡眠時間まで知られているのか、やはりこの部屋には監視カメラのようなものが存在するようだ。どんなに探しても分からなかったが。
「目の下の隈、酷い事になっていますよ」
隈のせいか。
「そこまでここから出て行くことを嫌がる人も珍しいですね。何が不安なんです?」
「何がって、全部ですかね。言葉もまだ充分じゃないし……。どうしても、外に出ないと駄目なんですか?」
「そういう決まりになっています」
物凄く面倒そうに、事務的な言葉を返された。
「自分で生活できるように、って意味があるのなら、ここでエンゾさんの仕事を手伝って、農業をやってみるというのは」
「本当にそれがしたいのであれば、それも良いかもしれません」
ですが、とリザレットは喜びかけた伊吹の気持ちにトドメを刺す。
「一度は町に出てもらいます。町で決まった保護者の下で、この国の人々と混じって暮らすこと、働くこと、そして異世界人の学校を卒業すること。その結果、永住権が認められ、正式にこの国の国民として受け入れられて初めて、住居、職業、移動等の自由が得られるのです」
結構色々面倒くさい。
感情が顔に出ていたのか、リザレットは目を細めた。愛想の無い顔に、笑顔のようなものが浮かぶ。但し、微笑とかではなく嘲笑めいたものだった。
「異世界人の学校は、資格があるのならその日の内に卒業することも可能です」
「………どういう事だ?」
「手続きを済ませ、卒業試験を受ければ良いのです。筆記、面接のテスト双方で基準点を満たせば晴れて合格、となります。貴方の努力次第ですよ」
努力……、嫌な言葉だ。
「流石にその日の内に卒業した者はいませんが。最短が2ヶ月と22日目の卒業です。その気なら、是非記録更新を目指してみたらどうでしょうか」
頑張ってください、なんて言っているが、物凄く棒読みだ。眼鏡の奥の瞳が明らかに、お前には無理だろうけどな、と告げていた。
リザレットが出て行った後で、伊吹は再びベッドに寝転がった。苛々していた。
(くそ!そこまで優秀じゃないってのは、分かってるって)
分かっている。嫌というほど。
子供の頃は良かった。賢い、頭良い、天才だとかもてはやされて、けど気がつけば普通の奴になっていた。一生懸命勉強してようやく、上位に入るくらい。1番どころか、2番、3番にもなれない。まるで勉強していなさそうな奴があっさり上にいたりする。
不公平だ。
要領よくて、明るくて、友達も多くて。
爽やかで充実した顔をしているクラスメイトが、伊吹は大嫌いだった。
あいつなら、きっともっと、うまくやるんだろう。どうせ。大した努力もしないで、卒業試験にもあっさり合格する。その上、異世界人の女にももてて、恋人なんかも作ってしまうに違いない。
………馬鹿馬鹿しい。
あいつはここにはいないのだ。
ありもしない想像をして苛立つなんて不毛だ。自分は自分で、何とかやるしかない。
考えるべき事は、もっと他のことだ。
少し前向きな気持ちが出てきた伊吹は、ベッドから起き上がり部屋を出た。とりあえず、適当に色んな人に話を聞いておこう。どうせ、当たり障りの無い話や、良い事しか言わないのだろうが、参考にはなる。
丁度、廊下の端にリチルを見つけた。両手に抱えているのはシーツだろうか。ここは手伝っておこう。駆け寄ろうと走り出した途端、くらりと目の前の景色が歪んだ。全身から力が抜ける。手の先から冷えていき、目の前が真っ暗になった。
貧血だ。
意識を失っていたのは、数分くらいだろう。
気がついた時、伊吹はまだ廊下に寝たままで、取り乱した様子のリチルと、もう一人の職員との話を聞いていた。
「医者がすぐに来るそうだ。頭を打っている可能性があるから、動かすなよ」
確かに何だか頭が痛い。目を開くのも、声を出すのも億劫だ。体が重く、吐き気もする。最近食事を減らしていた上、睡眠もろくに取れていなかったせいだろう。
「どうしよう、イブキも毒を盛られたのだったら」
「落ち着いてリチル。そんな筈ないよ、あの時の関係者は全部辞めさせられてる」
切羽詰ったやりとりに、咄嗟に開きかけた目を閉じる。
毒?その言葉がやけに引っかかる。まだ知らない言葉だ、覚えておいて調べる必要がありそうだ。
「犯人は分からなかったのよ」
犯人……一体、何の話をしているのか。
「だから、毒を入れる事のできる可能性があった人が全員、辞めなきゃいけなかった。でも、もしかしたらまだ別にいたのかも」
「リチル、落ち着くんだ。例えそうだとしても、あの子が殺されかけたのは、『影憑き』の可能性があったからだ」
「本当にそうだって言える?……イブキは、大丈夫だって?そんなの嘘よ。異世界人である以上は……」
何の話をしている。
背中が冷たいのは、廊下に寝ているせいばかりではないだろう。
「よりにもよって保護施設内で、あんな事があるなんて」
思い出す。
一時期、やたらと体調のことを聞かれていたことを。職員の様子や、食事に違和感が無かったか、そういう質問を繰返し受けた。
その頃伊吹が疑っていた事が、正しかったのだと直感的に悟った。
保護されていた異世界人がこの保護施設内で、何者かに危害を加えられた。食事や、体調のことをしつこく聞かれたという事は、毒でも盛られたのだろうか。
吐き気がした。
その異世界人とは誰なのだろう。時期的に言えば、同じ世界の人間であるように思える。既に外で暮らしているという女子高生は、何か違うような気がした。
生きている、のか?
浮かんだ疑問にぞっとする。
今までここで食べてきたもの全部、吐き出してしまいたい。




