菊乃の困惑 3
青い空、葉っぱの緑、あ、虫がいる。
未だ落ち着かない気分を鎮めようと、ひたすら景色を見て歩く。仕事途中だった事が引っかかっていたが、またユーイに会うかもしれないと思うと戻る気になれない。
いちいちこんな風に動揺するから、からかわれるのだ。
分かっていてるが、どうしようもない。
よいしょ、と木の根をまたぐ。無意識に歩いていたら、見慣れた場所に出た。少し前までキリアンと話をしていた場所だ。
もう、彼は来ない。
「………」
菊乃はいつか登った木へ目を向けた。少し考えてから自分の格好を見下ろす。以前の古い仕事服だったら良かったのだが、生憎メイド服っぽいスカートだ。
躊躇ったが、結局登る事にした。周囲に人影が無い事を確かめてから、木の枝に手をかけ足を幹に置く。以前のように急ぐ理由は無いから、慎重にゆっくり登ってみた。
前と同じ枝まで行って、踏み切って飛ぶ。
壁に体当たりするような勢いでぶつかりながらも、何とかしがみつく事ができた。力を入れて、上半身を持ち上げて、壁の上に身を乗り出す。
なだらかに下っていく緑の丘に、こんもりした森。それから、ぐるりと辺りを見渡すと、見覚えのある男の姿を見つけた。
やっぱり、いた
褐色の肌の青年は、前と同じ白の上着に黒のズボンを身に付け、腰から剣をぶら下げている。菊乃を真っ直ぐに見る紫の瞳も相変わらず冴え冴えと冷たく、睨まれているにも関わらずほっとしてしまった。
良かった。
やっぱり違う。
一人で納得していたら、男が僅かに眉を顰めた。
「今度は何だ」
話しかけられるとは思わなかった。
「あ、大丈夫です。逃げる気は、無いです」
「………」
「すみません、邪魔しました。あの、ユーイさんが、変な話するのを本当か確かめたいと思って」
目は口ほどにものを言う。男は最初の言葉以外、一切口を開いていない。だが鋭い眼光に、何故だか続きを促されているような気がして喋り続けてしまう。
「私の、疑いは晴れたから、謝るって……」
紫の瞳の温度が更に3度ほど下がったように見えた。
「謝罪を求めに来たのか」
菊乃はうろたえた。
「ち、違います!違って、ただ本当か信じるのが無理で、嘘だと思う、思って?ああ、あの、ごめんなさい。うまく、話すの駄目で」
焦るために余計に言葉が出てこない。少しは喋れるようになっているのだが。情けない、何をやっているのだろう。こんな格好で壁によじ登ってまで。
戻ろう。
もう一度謝ってから、と決めた菊乃が口を開く前に、男が言った。
「お前の疑いが晴れたという情報は、ケラスの方には上がっていない」
「え?」
ケラス?
知らない言葉だった。だが、内容は分かる。菊乃の『良くないかもしれない異世界人』という疑惑はまだ晴れていない、という事だ。
戻ろうと思った事も忘れ、菊乃は男を凝視した。聞きたいと思っていたことを、教えられるとは思いもしなかった。ユーイは何か思惑があってそう言ったのだろうし、彼もそれに気がついている筈だ。
彼はユーイと協力関係にある、と思っていたが違うのだろうか。
「キクノ」
考え込んでいた菊乃は、突然名前を呼ばれてはっとした。
慌てて振り返ろうとして、体を支えていた腕を浮かせてしまう。あ、と思った時には遅かった。がくんと体が傾いて、ふわっとした浮遊感に総毛だつ。
「キクノ!」
落ちる。
ゆっくりと景色が反転する。中途半端に伸ばした指が、固い壁に弾かれる。成す術も無く地面に落ちた。頭を庇う為丸めた肩と腕が痛みで痺れるようだった。手や腕のあちこちからも、じりじりと焼けるみたいな痛みが伝わってくる。
い、生きてる。
死ぬような高さではないが、打ち所が悪かったら死ぬ場合もある。早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、菊乃はゆっくりと起き上がった。
「何をやっている」
目の前に立つ男の姿に、菊乃は一瞬痛みを忘れた。
(な、何でこんな近くに……)
外だ。
態とではないが、外に出てしまっていると気がつき青褪める。先ほどまではもう少し離れた場所にいた彼は、固まった菊乃を助けるでも無くただ冷ややかに見下ろした。以前突きつけられた剣は、今も彼の腰元に収まっている。
小さく息を飲む。
「キクノ、大丈夫ですか?」
軽く地面を叩くような音が背後で響いた。ジェレミーの声だ。ぼんやりと思うものの、菊乃は動けなかった。蛇に睨まれた蛙のように硬直した菊乃の前に、何かが立つ。ジェレミーだった。
ジェレミーは小さく息を吐いてから、地面にへたり込んでいた菊乃の前に、膝をついた。
「怪我を見せてください」
言って、手やら腕やらをひっくり返された。動くたびに、あちこちに痛みが走る。
「頭は打っていませんね?どこか酷く痛むところはありますか?」
ストッキングが伝線し、擦りむいた足がむき出しになっていた。白いエプロンが茶色く汚れ、落ちる途中で引っ掛けたのか、スカートの裾がほつれていた。
「……ごめんなさい」
笑顔を消したジェレミーの顔を見上げ、菊乃は小さく頭を下げた。
「貰った服、こんな風に駄目にして、ごめんなさい」
灰青の瞳が、呆気に取られたように丸くなった。
「そこ?……正直に言って、一番どうでも良いところだ」
深い溜息を吐いてから、ジェレミーは苦い顔で菊乃を見つめた。
「服はどうでも良い。外へ出てしまった事は、不可抗力だったと言えるしそこも良しとする。僕が声をかけて驚いたから落ちたのだから、僕にも責任があります。何をしようとしていたかは知りませんが、壁に上るのは危ないのでもうやめて……これも先生に話して禁止事項に付け加えてもらいましょうか。ただ、僕が一番気に入らないのは」
ちらり、と一瞬背後に視線を向ける。
「君が彼と話していたという事実です」
ジェレミーは心底腹を立てていた。どんな時にも浮かんでいた柔らかい笑みが、今は無い。
「は、話したら、駄目だと知らなくて」
「駄目とかそういう問題ではありません。彼は危険だ」
ハイネス・ユーゴ
「彼は、異世界人対策本部ケラスの治安維持部隊の特務隊員です。何かあった時に異世界人を始末する為に動く。特に彼は、異世界人を憎んでいる。キクノ、なるべく彼には近づかないでください」
真剣な面持ちのジェレミーを、菊乃はじっと見つめた。
分からない言葉が多すぎて、半分も分からなかった。ただ、彼がハイネス・ユーゴという名前で、異世界人を憎んでいて、菊乃は近づかない方が良い、と。その辺りだけは辛うじて理解できた。
「キクノ」
促されるように名前を呼ばれ、菊乃は小さく頷いた。そこで漸く、ジェレミーが固い表情を緩めた。
「ここで、僕を頼って欲しいと言えると良いんですけどね」
笑顔ではない、苦笑だ。
「僕は先生に逆らえる立場では無いし、ハイネスが動くような事態になった時は、僕も君の味方にはなれません」
ふと伸ばされたジェレミーの綺麗な指が、菊乃の髪を梳く。距離が近い。どきりと心臓がはねて、菊乃は身を引いた。
「せめて、そうならない事を祈ってますよ」
笑みを深めて、ジェレミーは囁くように言った。
ジェレミーの肩越しに、背を向けて歩き去ろうとするハイネスが見えた。銀の髪を揺らし、顔の半分だけが振り返る。射るような眼差しが、菊乃を捕らえた。
疎まれている、とその目を見るだけで確信できる。
だから、さっきのはやっぱり気のせいなのだろう。落ちる時に、彼がこちらへ駆け寄ってきた姿を見たような気がしたのは。
菊乃はそっと、逃げるように目を伏せた。




