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菊乃の困惑 2

 ジェレミーが用意してくれたという仕事着は、どうみてもメイド服に見えた。菊乃が知るものよりもずっとシンプルで、スカートの短さも許容範囲内であったが、やはり着るのは抵抗がある。

 特に、ワンピースの上部分。布の素材が伸縮性のあるものだったため、体の線がはっきり出てしまうのが居た堪れなかった。何故かエプロンは腰下の物だし、スカートはやたらと軽く広がりやすい。

 こういうのはもっとスタイルに自信がある人が着るべきだ。何よりこんなの着てたら、仕事に集中できない。

 前の服で良いというお願いは、あっさり却下された。

 菊乃を困惑させ続けているのは、その仕事着の問題だけではない。いや、一番の問題は。


「キクノ、顔色があまり良くないな、大丈夫か?」


 出た。

 言われた通り、客室の掃除をしていた菊乃は、びくりと体を震わせた。顔を上げたくない。いっそこのまま気がつかなかったふりをする……のは流石に無理がある。

 諦めて顔を上げると、開いたドアのところにユーイが立っていた。目があった途端、優しげに微笑まれて緊張が走る。ほんの数日前までは、彼がそんな風に笑えるなんて知らなかった。特に知りたくも無かった。

「だ、大丈夫、です」


 だから、そのまま出て行って欲しい、というかなり切実な願いは叶わない。


「無理するな」

 今までとは別人のような、甘くとろけるような笑みを浮かべたユーイは、どうも違和感がある。怖い。菊乃は思わず身を引いた。それでもなお熱っぽく見つめられ、まともに顔を見られない。

「疲れているなら、休んで良い。お前は色々と頑張りすぎだ」

 今までが、今までなだけに、優しい言葉が胡散臭い。

 例えば、初対面からこの態度だったら、うかつにもどきどきしたかもしれない。

 だが菊乃は、横暴で口が結構悪くて厳しく容赦の無いユーイ・ユーイを知っているのだ。今のこの状態も何かの嫌がらせとしか受け取れない。もしかしたら、新しい『遊び』の一環なのかもしれない。ろくに恋愛経験の無い、男友達すらいなかったような女をからかって面白がっているのに違いなかった。


 悔しいが、効果は覿面だ。


 事の起こりは昨日の夜のユーイの発言だ。

『お前の疑いは晴れた。今まで色々と悪かったな。非礼の謝罪にはならないかもしれないが、できるだけの事はする』

 他に一切の説明はされず、ただユーイの態度だけががらりと変わった。

 それを、信じられるほど、菊乃は能天気ではない。

 棚を拭いた布を胸元で握り締めたまま、菊乃はじりじりと後ろへ下がっていた。ゆっくりと、ユーイ・ユーイが間を詰めて来る。物凄く愉しげな顔で。

(やっぱり、遊ばれてる)

 そうは思うものの、どうしようもできない。


 最近まで、母と2人暮らしだった。

 3歳の頃に出て行った父親の記憶は殆ど無い。遅くまで働く看護師の母のため、家の仕事は菊乃がやるようになっていた。遊ぶ時間は無い。男友達どころか、女友達すらろくにいなかった。社交性は全く無い。


「どうした菊乃、何で逃げる?」


 艶っぽい笑み、射すくめるような熱い視線、近づく距離。何もかもが限界だった。

 菊乃は全速力でその場から逃げ出した。



 職場放棄をして逃げ出した菊乃を見送って、ユーイは噴出していた。

 思った以上に慣れていない。

 どんなに酷い対応をしてもじっと耐えていたあの菊乃が、おろおろとする様子は面白かった。追い詰められた小動物を連想させる不安そうな顔には、嗜虐心が擽られる。

「……ご機嫌ですね、ユーイ様」

 部屋に入ってきたジェレミーは、やれやれとばかりに肩を竦める。呆れたような眼差しに、非難の色があった。

「酷いですね。僕には適度な距離を保て、とか言っておいて」

「俺は仕事に私情はいれないからな。お前と違って」

「趣味は入っているみたいですけどね」

 口の減らない男だ。

「まぁ、ユーイ様が迫った女に逃げられるという、中々貴重な場面を見させてもらって、僕も笑わせていただきましたよ」

 ぴくり、とユーイのこめかみが動く。

「あのな。俺はあくまでキクノを追い詰める為にやってるだけで、本気じゃ無いんだ」

「本気だったら違うとでも?」

「当たり前だ。あんな初心のガキの1人や2人」

「相変わらずの自信家ですね、ユーイ様は」

 やけにつっかかる、とユーイは部下の顔を見上げた。特に変わった様子は見受けられない。人当たりも良く融通の利く優秀な男だ。彼らは2人揃って女好きの遊び人のように言われているが、仕方無い話だ。顔が良く、地位も金もあるとなれば寄ってくる人間は多い。

 ユーイが基本的に好みの(美人でスタイルが良くついでに気が利く大人の女)女性しか相手にしなかったのに対して、ジェレミーは興味と気が向けば誰とでも遊んだ。と言っても、ウィガーが誤解しているように、実際に深い仲になった相手は少ない。

 文字通り、遊んでいたのだ。(この辺りがユーイには理解できないが)


「まさか、お前」


 ジェレミーの趣味は昔から理解できない上、一貫性が無い。

 キクノは容姿は悪くないが、まるきり子どもで色気に欠ける。性格も大人しい割りに頑固で可愛げがなく、その上真面目、慎重と面白みもない。普段冷静な分、動揺し怯える様は確かに可愛かったが。

「本気じゃないだろうな」

「キクノは可愛いじゃないですか」

 言外に信じられないという思いを滲ませたのに対して、ジェレミーは苦笑する。

「良い子だと思いますしね。それはともかく、僕が言いたい事はそういう事ではなく」

「何だ」

「相手がキクノであろうと無かろうと、女性に対してああいうやり方はどうかと思います。マーサさんからその内苦情が来ますよ」

 多少、悪乗りが過ぎていた事は認める。ユーイは肩を竦めた。

「確かに、それは困るな。自重する」

 菊乃はどうやら逆境に強い。今までのひたすら追い詰めるようなやり方では、あまり効果が得られなかった。もう少し緩急をつけていくべきだ。

 優しくして油断を誘う。

 褒められたり、優しくされたりすることに、菊乃は慣れていないようだった。あからさまに警戒する様は、人馴れしていない子猫のようだ。


 酷い事をしていると思う。


 だが、止めてやるわけにはいかない。菊乃の正体を見極めるまでは。

「さて、じゃあ僕はそろそろ行きます」

「何処へだ?」

「キクノを探しにですよ。どうも外へ行ったようですから」

 外、と行っても庭だろう。そこから先へ行く事はまだ許していない。わざわざ探しに行く必要があるとはユーイには思えなかった。

「ジェレミー」

「何です?」

「お前な、あまり入り込むなよ。キクノがもし本当に『敵対者』だったら、辛くなるだけだぞ」

 そういう例を知っている。

 親切心で忠告するユーイに対して、ジェレミーは笑みを深めた。

「その時は、その時ですね」

 分かっているなら、勝手にすれば良い。呆れた思いで、ユーイは彼を見送った。

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