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菊乃の困惑 1

 さて、この世界に迷い込んでから2ヶ月近く。様々なことがあった。菊乃は菊乃なりにできる事を懸命にこなしてきたつもりだが、世間の風当たりは驚くほど冷たかった。

 ようやく出来たかと思った壁越しの友達も失い、菊乃は改めて思ったのだ。


 もう、いいや。


 期待するから、しんどいのだ。もうすっぱり諦めて、必要最低限にしか人と関わらず生きていこうと、後ろ向きな覚悟を決めた矢先の事だ。

 5日ほど姿を見せなかったユーイ・ユーイが、いきなり菊乃の部屋へやって来た。相も変わらず派手な色の、中世の貴族みたいな(詳しくは知らないが)服装のユーイは、突然の来訪に驚く菊乃にこう告げた。


「仕事をやる。暫く俺の下僕として使ってやろう」


 下僕、って何だっけ?


 と、その時菊乃は考えていた。仕事を貰えるというのは嬉しいけれど、何でいきなり。戸惑いをどう取ったのか、ユーイは意地悪そうな笑みを浮かべた。

「どうした、働きたいんだろ」

「はい」

 気を変えられても困る。そう思ってした返事を、後で悔やむ事になるとは思わなかった。

 以来、菊乃はユーイに良い様に使われている。


 「これを着て仕事しろ」と手渡されたのは、地味な感じの仕事着だった。

 くすんだ灰色の上下で、七部丈のずぼんの裾がほつれていたり、つぎはぎがしてあった。かなり使い古された感じの古着だが、洗濯はしてあるようだったので、特に文句は無い。菊乃の持っている服はまだ新しく、どれも仕事には向かなさそうなものばかりだった。だからそれを用意してくれたのだろう。

 意外と気を使ってくれているんだなと、感謝の気持ちすらあったのに、実際着て行ったら何故かつまらんと文句を言われた。

 全くわけが分からない。

 その日から、延々とわけの分からない事ばかりさせられている。


 今日の仕事は、ユーイの仕事部屋の一室で、床に散らばった白い豆と黒い豆をより分けて、それぞれの壷に入れるという作業だ。

 大体毎日こんな感じで、全く意味の無さそうな事ばかりをやるように言いつけられる。

 こんなの仕事じゃない。

 と、思わないでもなかったが、雇い主らしいユーイの言いつけならば仕事になってしまう。嫌がらせなんだろうか、やっぱり。白い豆をひたすらより分けていると、開いていたドアの方から声がかかった。

「キクノ、入るよ」

 返事の前にジェレミーは既に部屋に入ってきていた。急いできたのか、彼にしては珍しい事に若干髪が乱れている。しかし、風に流れ、頬にかかるほつれた髪の一房がまた絵になってしまうのだから、美形はお得だ。

「ジェレミーさん、こんにちは」

 朝食時に彼はいなかったので、今日会うのは初めてだった。

「こんにちは」

 ジェレミーはにこりと笑ってから、床にしゃがんでいた菊乃の目の前に膝をついた。間近で合わさる灰青の瞳が、やけに楽しそうに見えた。

「さぁ、キクノ」

 手にしていた四角い箱を差し出しながら、彼は言う。

「こちらの服に着替えてきてください」

「はい?」

「大丈夫ですよ、ユーイ様に許可を取っていますから。安心してください。今度のは私が選んだちゃんとした専用の仕事着です」


 ジェレミーの言う事も、相変わらず良く分からない。


 外で待っていますから、そう言ってジェレミーは出て行ってしまった。仕方ない、着替えるしかなさそうだ。白い箱の蓋を開け、丁寧に折りたたまれた服を広げた菊乃は、目を丸くした。



 最近、ユーイは悩んでいた。

 悩みの種は、彼が預かっている異世界人についてである。

 キクノは見た目の頼りなさの割りに、中々しぶとい人間だった。最初は軽く苛めておけば、泣いて逃げ出すだろうと思っていたのに、一向に動かない。仕方なく、逃げ出すように仕向けたものの、結局大した成果は得られなかった。


 過度のストレス、生命の危険、苦悩……それは、絶望と共に現れる。


 ユーイ達が警戒する『侵入者』は、世界喪失者が世界をくぐる段階で、その体にとり憑きやってくる。見えない敵だ。

 それが、キクノの体に眠っているのかは、まだはっきりしていない。彼女の体の中に、確かに何かの揺らぎを感じる事があるのだが、見極めがつかなかった。

 疑わしいからと言って、殺すわけにはいかない。

 血に濡れた悲劇を繰り返して、時代は変わったのだ。歴史の負い目が仕事をやりにくくしている。逸脱した暴力行為、脅迫等、禁止されている事項は多い。

 面倒な事ばかりだ。

 精神的に追い詰めろ、というのもな。

 ユーイは正直手を焼いていた。異世界に落ちた時点で、既に追い詰められている筈なのだ。頭が弱いわけでは無い筈だが、嫌味を言っても平然としているし、突き放しても堪えていない。殺されかけても、裏切られていたと理解しても涙一つ零さない。


 キリアンは、菊乃にとって大した存在ではなかったのか。

 壁越しに偽っていたのは、こちらだけでは無かったのだろうか。菊乃は恐らく気がついていないだろうが、この世に彼女の友達だった『キリアン』は存在しない。

 壁の向こうで話していたのは、ユーイだ。風で拾い集めた子どもの声を組み合わせ、話をさせていた。家族の話なんかは適当に作り上げたものだ。子どもがいなくなったと迫真の演技を見せた女は、部下の一人。


 色々と面倒な事をやったが、全部無駄に終わってしまった。


 直々に反応を見ようと手元に置いて見ているが。

 若い女なら嫌がりそうな汚らしい古着を平然と着こなし、ユーイの嫌がらせにも文句一つ言わず従順に従う。


 シマだったら、殴りかかってくるな、確実に


 ウィガーが面倒を見ている異世界人を思い出す。あれは実に簡単そうだった。馬鹿だしな、と彼女が知ったらそれこそ怒りそうな事を考えながら、ユーイは次の作戦を練っていた。

「ユーイ様、入りますよ」

 ノックの音と共に現れたのは、ジェレミーだった。

「何だ、今忙しい……」

 ユーイの視線がやたら女受けの良い男の甘い笑みを通り越し、彼の背後で所在無さそうに立つ少女を捉えた。誰かと思えば、菊乃だった。

 何故か屋敷や城の侍女が着るような服を着ている。黒いシンプルなワンピースに、フリルの白い前掛け。通常のものとは違い、スカートは膝丈となっている。黒のストッキングに黒の革靴。

 露出部分は少ないが、ワンピースの上部分がシンプルな分、妙に体の線が分かるデザインとなっていた。その為か、菊乃はひたすら恥ずかしそうに俯いている。耳や頬が赤く染まり、指先をぎゅっと握り締めて立つ姿は大変に。

「まずい……可愛い」

 どこかうっとりと、満足そうなジェレミーには呆れる。有能なのだが、こういう『悪い癖』があるのが玉に瑕だ。割合気分にむらがある男なので、然程心配は無いとは思うが。

 どこかで釘を刺しておかなくてはならないだろう。

 それは兎も角として。


「……ジェレミー、お前は天才だ。ある意味な」


 不安そうな少女の様子を眺め、ユーイはにやりと笑った。


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