志真と天敵 1
冷たいものが背筋から首の辺りに抜けていく。志真には見えぬそれに向って、必死で懇願を続ける。
(やめて、待ってよ、行かないで!)
今や志真の話し相手であり相談相手であり、通訳でもある彼女に向って心の中で叫ぶ。
(ラスー!)
しかし、ラスカゥルは戻ってこなかった。姿を見る事はできなくても、気配くらいは感じられるようになった今日この頃。逃げてしまった姿無き友人の事を思って、志真はがっく肩を落とす。
便利だからって、頼りきりになっていたのがいけなかった。喋る事ができなくても、相手の言いたい事を理解できれば、何とかなる。なってしまう。そんなわけでラスカゥルに頼りきり、言葉の勉強を怠っていた為、肝心の彼女がいなくなってしまうと。
「シマ。お客さんよ」
……分からない。
情けない顔で拭き掛けの皿を握り締めている志真を、フィオーネは不思議そうに見つめた。
「どうかした?」
仕事中であるために、長い髪を二つにわけて結んでいるフィオーネは、いつもよりも幼く見える。白いシャツと黒い膝丈のスカート、黄色のエプロンというシンプルな格好は志真とお揃いにも関わらず、何だか様になっていた。
体型の差だろうか。
フィオーネは手にしていた箒を棚の隣に立てかけて、青い顔をしている志真の頭を撫でた。
「どうしたの?気分でも悪い?」
「ふぃ、フィオーネ…」
「ああ、そっか。そんなに怯えなくても大丈夫よシマ。異世界人の素行観察をしに来てるっていうのは建前で、単に遊びに来てるのよ、あの人。昔っから兄貴と仲良かったし、多分…シマの事も気に入ってるんじゃないかな」
優しく笑う笑顔は変わらないのに、言葉が分からない為に不安は晴れない。
「さ、行きましょ。そんなに不安なら一緒についててあげるから」
彼女がどこに志真を連れて行こうとしているのかも、そこで誰が待っているのかも、志真には分かっていた。
しかし、拒否する権利は志真には無い。理不尽!だとは思うが。これは必要な事なのだと、ウィガーからも煩いくらいに言い聞かせられている。町で働く異世界人が、ちゃんとそこでの生活をこなせているか、問題は無いか。そういう事を調査する役人がいるのだそうだ。
異世界人の人権を守る為でもあるとか何とか言っていたけど、絶対『建前』だ。
どうせ異世界人が何か問題を起こしていないか、見張っているだけなのだ。
フィオーネに連れられてやってきたのは、宿屋の一室だ。志真に与えられている部屋よりも小さいが、この宿屋では一番高い上等な部屋だ。おちついた深緑の絨毯や、カーテン、ベッドやソファーなどの家具も全て、一目で高いものと分かる代物。キレイな風景画や、ぴかぴかに磨かれた花瓶なんかも飾ってある。志真が掃除を任されない部屋だ。
大人が寝そべるのに充分なふかふかした長椅子に偉そうに座るのは、どこも撥ねていない金髪ショートボブの綺麗な頭をした少年、の皮を被った男。
ユーイ・ユーイというふざけた名前の男だ。
「悪いね、フィオーネ。わざわざ連れてきてもらって」
「構わないですよ。仕事も一段落したところですし、兄がいない時は、私がシマの事を任されていますから」
「折角来たのにウィガーがいないのはつまらないな」
「直に戻ると思います。買出しに出ただけですから」
ぶすっとした顔の志真には目を向けず、ユーイはフィオーネと会話を続ける。何を話しているのやら。せめてラスカゥルがいれば分かるのだが。
理由は分からないが、ラスカゥルはユーイを苦手としている。その為彼が来るとすぐにどこかへ逃げてしまうのだ。
早く帰ればいいのに。そう思うが、おそらくこの部屋にいるという事は今日は泊まるつもりなのだろう。迷惑な話である。じと目で睨んでいると、ユーイがちらりとこちらを見た。目があった!と思った瞬間、嘲るような笑みが口元に浮かぶ。
「!」
何だその顔!憤慨する志真を他所に、ユーイはフィオーネに視線を戻す。
「最近のシマの様子はどう?何か変わった事は?」
「そうですね、特に何も。いつも通り元気に働いて、学校に行って頑張っていますよ。兄とも相変わらず喧嘩ばかりで」
「あはは、良いね。楽しそうだな」
「良くないですよ。もう少し仲良くしてくれると良いと思うくらいで」
「あれで、ウィガーはシマを気に入っているんだよ」
「……そうですか?」
一体何を話しているのだろう。自分の話題だろうと思うだけに、気になった。特に、ユーイのどこか悪巧みするような笑みが。
「ウィガーは昔から好きな相手に素直になれずに、つい意地悪してしまうようなところがあったからな。全く、仕方の無いヤツだ」
「…え、それってまさか、実は兄さんがシマの事を好きって事ですか」
「異世界人との恋愛は禁止されていないが、一応保護者の立場だからな。ウィガーも葛藤しているのかもしれない」
「えええぇ……、あ、兄さんってばそんな……そうだったなんて」
いや、本当に何を話しているんだ。フィオーネがどこか赤い顔で、ちらちらと志真を見るのに、本格的に不安が募る。
「ウィガーの友人の俺としては、是非応援してやりたい」
「そうですね、私もできれば兄さんにも幸せになってもらいたいですし、勿論シマにも」
その時だった。部屋の扉が勢いよく開いたかと思ったら、不機嫌と怒りとを綯い交ぜにしたような顔のウィガーが、荒々しい足音を立てて乗り込んできた。
「お前、ユーイ!妙なデタラメをべらべらと広めようとするな!」
「おかえり、ウィガー。邪魔させてもらってる」
「週に何度も来るな、この暇人が!こいつの素行調査なら週に1度で良い筈だ!」
「二人の時間を邪魔するなって?」
「それ以上不愉快な事を抜かすとたたき斬る」
よほどの事を言われたのか、ウィガーの顔が怒りのあまりか無表情に変わる。
「あ、兄さん、ちょっと落ち着いて。宿屋で流血沙汰はまずいよ、それに、一応ユーイさんはお客様だから」
「客?」
「そう、今日ここに泊まるからよろしく」
「お前な…!」
彼の事はいけ好かないと思っているが、ユーイが相手だと素直に応援したい気持ちになるから不思議だ。敵の敵は味方、というやつだ。
「ウィガー、がんば!」
何を言い合っているのかは謎だが。
志真は両手を握り締めてとりあえず応援してみた、のだが。
何故かウィガーはこの世の終わりのような沈痛な表情になり、ユーイが満面の笑みになった。
「あははは、何だ、やっぱり仲良いじゃないか」
「………シマ!」
ウィガーの怒りの矛先は、何故かシマに向けられた。
「お前、言葉が分からなくてもせめて空気を読んで黙っていろ!」
「何その言い方!人が折角珍しく応援してやろうって気になったってのに!」
「お前の応援など無い方がマシだ」
きっぱりとウィガーは言い切る。何て嫌なヤツだ。2度と、例え何があってもウィガーの味方になどなってやらない。そう志真は誓った。
ラスカゥルには悪いが、志真に彼の良さはやはり理解できない。
フィオーネが仕事に戻ると言って出て行った後、志真はユーイの正面に座らされた。隣には機嫌の悪いウィガーが座り、非常に居心地が悪い。
「で、一体何の用だ?」
「暇つぶしに、というのは勿論冗談だが。まだ極秘の情報だが、昨夜一人の異世界人が行方不明になった」
苛々していたウィガーの雰囲気が、一転する。何か深刻そうな雰囲気だ。何を言われたのか興味を惹かれるが、生憎ラスカゥルはここにいない。
「誰が」
「ああ……キクノじゃない。20年前に7から落ちてきたやつだ。仕事の帰りに行方が分からなくなった。目撃者の話によると、黒いフードの集団が辺りをうろついていたらしいが、関与は不明」
「排除派の奴らか、それともシュターク教派の?」
「その辺も含めて調査中だ。手がかりが殆ど無いから難しい、ま、次があれば」
志真はすっかり除け者にされている。暇だ。ソファーに置かれていた弾力のあるクッションを膝の上に置き、叩いてみる。
「次、がある可能性があるから、一応その異世界人にも外出を控えるようにという注意を与えておけ」
「禁止ではないのか」
「ああ。学校も休校にはならないしな。ただ、何かあった場合に不味いから、注意はしておかなければならない」
「囮に使う気か」
「相手の出方が分からなければ、対策も取れないというだけの話だ。……それより、それ止めさせろ。いい加減煩い」
ウィガーは顔を顰めると、志真が暇つぶしに叩いていたクッションを横から掠め取った。




