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菊乃の反抗 1

 保護され、住むところがあって、食べ物ももらえる。それだけでも、十分恵まれているのだと思う。

 例えば、と菊乃は考える。

 あちら……地球の日本に普通に暮らしていて、突然言葉が全く通じない姿もどこか異なった新人類みたいなのが現れたらどうなるか。……どうなるんだろう、実際。あちらに異世界があるなんて認識は無かったから、少しややこしい事になるかもしれない。

 宇宙人だ、と勘違いされる事の方がありそうだ。

 どこの国に落ちるかでも、命運は分かれる。

 いきなり戦争に巻き込まれるかもしれないし、アフリカあたりでライオンの餌になる事もあるかもしれない。うまく保護されたとしても、最終的には色々調べられて、人間と違う存在だとかなって、研究対象に、とかそんなところだろうか……。

 異世界は、沢山あるらしいから、ここではなく、もっと未開の地みたいなところに落ちていた可能性もある。そこで、獣や全然姿の違う異世界人の食料になっていたかもしれない。


 と、菊乃はぼんやりと考えていた。

 だから今の窮屈な生活はかなり恵まれているのだ、と自分に言い聞かせる。

 菊乃は疲れていた。

 今の安定した生活は仮初に過ぎず、いつ打ち切られてもおかしくない。

 菊乃はこの世界の人間にとって歓迎しがたい異世界人、であるかもしれず。(それがどういう基準によるものなのか、曖昧だが)万が一そうだという事になってしまった場合、どうなるのか。菊乃には分からなかった。

 閉じ込められるか、最悪殺されてもおかしくない。

 それは嫌だから、菊乃は考える。溶け込む努力する。慎重になる。人に不快を与えないよう、気を配る。

 しか、今のところ何も変わらない。どうすれば良いのかまるで分からなかった。


 気晴らしに庭に出てみると、どこからか、子どもの泣き声がしていた。


 菊乃はぶらぶらと木々の間を歩きながら、何となくその声のする方へと足を向けた。する事が無く暇なのだ。ウィガーの通訳で、働きたいという意思を伝えてもらったが、ユーイから許可はおりなかった。

 ユーイが駄目だと言った以上、どうする事もできない。この家ではユーイが王様だ。

 何一つ変わらないまま、時間ばかりが過ぎていく。


 ぐすぐすと、しゃくりあげる声が近い。この壁の向こう辺りにいるのだろう。どうしよう。暫く躊躇っていたが、思い切って声をかける事にした。

「どうしたの?」

 一瞬、泣き声が止んだ。少しの沈黙の後、ずずっと鼻をすする音が聞こえた。

「だ、誰…?」

 怯えたような幼い子どもの声は、泣き続けたせいか枯れていた。迷った末、菊乃は答える。

「菊乃」

「……キク、ノ?それ、名前?」

「うん。貴方は、どうして、泣く?」

 再び沈黙。言葉の発音が悪く、通じないのかもしれない。何と言えば、良いだろうか。菊乃は考え、口を開く。

「助け、いる?」

「……靴、が」

 しゃくりあげ、ひっくり返った声が答えた。

「い、いじわる、されて、く、くつが。僕の、くつ……そっち、塀の向こうに投げられて、くつ、無くしたら、怒られる」

 しゃくりあげる度に途切れる声は切れ切れで、非常に聞き取りにくかった。だが、繰り返される靴という単語と、塀という単語は聞き取る事ができた。

 くつを無くして泣いているのだろうか。それで、塀の向こうで探しに行く事も無く、泣いているという事は。


(こっちに、あるのかな)


 何となく辺りを見渡した菊乃は、すぐにそれを見つけた。木の根元でひっくり返った、茶色の小さな革靴だ。きっとこれの事だろう。それを拾い、辺りを見渡すと木の反対側にもう一つ。

「あった」

「!……ほ、本当?」

「いま、なげる。取って」

 一度声をかけてから、菊乃は靴を一つづつ思い切って投げた。蔦の這う2メートル程の壁の上を、革靴は飛んでいく。それはうまくひっかかることなく、向こう側へ落ちた。

「僕のくつ!あ、ありがとう!えっと、キクノ!」

「ううん」

 じわり、と胸の中に暖かいものが広がる。こちらへ来て、こんな風に誰かに感謝をされたのは、初めてだ。

「本当にありがとう!もう駄目だって思って、諦めてたんだ。だって、食べられちゃったりするよりは、まだお母さんに叱られた方が良いもん。けど、お母さん怖いし……くつを見つけてくれて、ありがとう。……あ、でも、キクノはどうしてそこにいるの?危なくない?」

「あぶない?」

「だって、皆言ってるよ。今、ここには悪い異世界人がいるんだって。だから近づいちゃいけないって。掴まると、食べられちゃうんだよ。もしかして、キクノは掴まっちゃったの?」

 心配そうに子どもの声が翳る。わるい、異世界人。その言葉が菊乃を凍りつかせていた。それは菊乃の事に違いなかった。


 ああ、そっか。


 すっと、心が冷えていく。子どもが靴を取りにいけずに泣いていたのは、この家にいる悪い異世界人が怖いからなのだ。この子が普通に菊乃と話してくれるのも、感謝してくれるのも、菊乃が異世界人だと気付いていないから。

「………」

「どうしたの?」

 心配そうな声に、菊乃は少しだけ迷う。どうせもう会う事もないだろうし、わざわざ言って怖がらせる必要は無い。自分が何者であるかなんて言って、どうなるというのだろう。

 でも、分かってもらいたい。


 誰でも良い、誰かに。悪い異世界人じゃないと、認めてもらいたい。


「私、異世界人です」

 口にした途端、決意は後悔に変わる。壁の向こうから、小さく息を飲む音が聞こえた。それから、一目散に走り去っていく小さな足音。

 行ってしまった。

 こうなるだろうと分かっていたのに。菊乃は冷たい塀にもたれ、ぺたりとその場に座り込んだ。

「悪い、異世界人って」

 何なのだろう。少なくとも、菊乃は人を食べたりはしないが。意外に噂は広まっているようだ。「良い子にしてないと○○が来るわよ!」と、自分がその空白に当てはめられるような存在になる時が来るとは、思いもしなかった。


 海で溺れて、死に掛けた時。助けてくれた『異世界人』の事を思う。


 そもそもあれが始まりだったのは分かっている。菊乃の命を助けた幸運、奇跡的な巡り合わせ。それがいけなかったのだとしても、菊乃は自分を助けてくれたというその人に、感謝している。

 誰なのかも分からない、その自分を助けてくれた異世界人は、今の菊乃の支えになっていた。そういう意味でも、恩人だ。

 いつか会ってちゃんと、お礼を言いたい。

 菊乃を助けた事で、その人が何らかの不利益を被っていないと良いと心から思う。

 せめて、その恩をちゃんと返すまでは、


「キクノ……」


 小さな、息を詰めたようなその声は、菊乃をはっと我に返させた。

「キクノ、まだいる?」

 さっきの、子どもの声だ。戻って来た事に、菊乃は驚いた。

「どうしたの?」

「!」

 ひ、とも、い、とも付かぬ悲鳴のような声を飲み込む音が聞こえた。

 怖がっている。

 子どもの好奇心は旺盛だ、怖いもの見たさで戻って来たのだろうか。恐怖よりも好奇心が勝ってしまう。それは、時として非常に危険な事だけれども。

 ここで注意するのも変な話だ。別に菊乃人が言うような危険な存在ではない、筈だ。

 どこか緊張した沈黙が数十秒続く。菊乃ただ黙って、相手の言葉を待ち続けた。やがて。

「………ご、ごめんなさい」

「え?」

 子どもの口から出た謝罪の言葉に、菊乃は驚く。謝られるとは、思っていなかった。

「ごめんね、キクノ。キクノは僕の靴を取ってくれたのに、優しくしてくれたのに、急に逃げちゃって……ごめんなさい。お、怒ってる?」

「いいの。ふつう、と思う」

 寧ろ謝る為に、わざわざ戻ってきてくれた事の方が、凄いと思う。凄く怯えて、怖がっていたのに。

「キクノは、あの、ほ、本当に異世界人、なの?」

「うん」

「わ、悪い事するの?人、食べるって本当に?」

「ううん、しない」

 菊乃は普段よりもはっきりと声を出した。

「食べないの?」

「うん」

 再び塀の向こうが静かになる。ここからでは顔も見えないから、彼が何を思っているのか菊乃には想像する事も難しかった。それは多分、向こうも同じだろう。

「………また、来ても良い?」


 彼がどんな気持ちで、何を考えてこう言ったのかも、菊乃には分からなかった。


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