菊乃の反抗 2
キリアン
それが、菊乃にできた初めての友達の名前だ。
年は10歳になったばかりで、素直でちょっと怖がりな男の子。壁越しで話しているため、姿は分からないが、何となく育ちが良さそうな感じがしていた。
午後の3時、菊乃は殆ど毎日庭に出る。キリアンが靴を落とした壁の辺りで1時間ばかりぼうっと過ごす。キリアンは毎日来るわけではない。週に3、4回程やって来ては、おそるおそる菊乃の名前を呼ぶ。
最初の頃は緊張した様子だったキリアンも、最近は慣れたのか屈託無く話すようになった。時々、くすくすと楽しげに笑ったりもする。
キリアンの話の内容は様々で、学校の事、友達や、家族の事、勉強の事、読んだ本の事などだ。あまり話す相手がいないのか、飽きることなく話は続く。
それに対して菊乃は短く相槌をうち、続きを促す。退屈だとは思わなかった。人の話を聞くのは好きだし、勉強にもなる。
やがて話し終えると、キリアンが菊乃に質問を始める。菊乃の姿の事や、家族の事、世界の事。
ぽつぽつと、思い出すまま菊乃は話す。
もう2度と戻らない菊乃の思い出を語るのは、ほんの少しの痛みを伴う行為だ。慣れない言葉であるために、ゆっくりとしか話せ無いが、キリアンは急かさない。それどころか、時々はキリアンが先生になって、菊乃の発音を直してくれたりする事もあった、
それは菊乃にとって、唯一安らげる穏やかな時間だった。
「最近ね、お母さんが煩いんだ。危ないから、早く帰って来いって」
「悪い異世界人、いるし?」
「違うよ、キクノの事は内緒にしてあるから。そうじゃなくてね、最近物騒なんだって。誘拐事件が起きてて、死体で見つかった子もいるって。同じ学校の子にもね、誘拐されそうになった子がいるらしいんだ。走って逃げたって、本当かどうかは知らないけど」
それは本当に物騒な話だ。菊乃は眉を顰めた。
「キリアン、平気?少し、来るの止めるのが良いと思う」
「大丈夫だよ!僕はね、えーっと、ちゃんと気をつけてるし安全だから……とにかく!心配しなくて良いんだ。それよりね、明日良いものを持ってくるから、絶対待っててね」
「でも」
「大丈夫!ね、約束。良いでしょ?」
押し切られるように約束を交わしたが。翌日、キリアンは現れなかった。
風が雨の匂いを含んでいた。
今にも振り出しそうな灰色の空の下、菊乃はそっと溜息を吐く。家に戻った方が良いと分かっていたが、気が進まなかった。昨日帰り際に、キリアンが残していった言葉が引っかかっていた。
明日、良いものを持ってくるから、絶対待っててね。
そう言ったのに。
(何かあって、来れないのかもしれない)
キリアンは約束を破るような子供ではない。
病気や事故、もしかしたら家で不幸があったとか。思い浮かぶのはどれも不吉な理由ばかりで、菊乃は落ち着かない気持ちになる。近頃多発しているという誘拐事件に巻き込まれていたら、どうしよう。離れがたい。いつまでもそこにいたところで、何かが分かるわけでもないのに。
菊乃は手を伸ばし、茶色の石の壁に触れてみた。微かに暖かい、ざらざらとした感触。
それが、菊乃と世界とを隔てる壁だった。
心配だから様子を見に行く。そんな簡単な行為も、許されていない。ぽつ、と手の甲にぬるい雨の粒が落ちる。ついに降って来た、これ以上は待てないし、もうキリアンも来ないだろう。そう思うのに、足は動かなかった。
ぽつぽつと降っていた雨はやがて大降りになった。勢い良く降ってきた雨の粒が、あっという間に菊乃を濡らす。
着ていた緑色のワンピースが、雨を吸って皮膚に張り付く。髪を伝い、顔や首筋に流れていくぬるついた水の感触も、まるで気にならなかった。今、菊乃の心を占めているのは、キリアンの身の心配だけである。
余計な心配だと、良いけど。
どれくらいそうしていたのだろう。雨の音に混じって、ばしゃばしゃと水を撥ねる足音が近づいていた。
「キクノ」
頬に当たる雨が消える。
「探しましたよ。こんな雨の中、何をやっているんですか」
この世界にも傘はある。紺色の大きな傘を差し出しながら、ジェレミーがほっとしたような顔で菊乃を見下ろしていた。
「家に入ってください。風邪を引きます」
さぁ、と腕を引かれるのに、逆らう気は起きない。
ここで菊乃が何をしていたのか、ジェレミー達は知っているのだろうか。知らぬ筈は無いと思いつつも、直接確かめるのは怖かった。誰かと話す事は禁じられてはいないが、ユーイは簡単に菊乃の行動を制限する事ができる。
彼らは何も言わない。もし知っていて黙っているなら、それは何を意味するのだろう。
もう、キリアンはここには来ないのかもしれない。
漠然とそう思った。
元々、そう楽観的な方では無いが、ここに来てからの菊乃は常々悲観的な物の見方をするようになった。常に悪い事を想定するのは、いざという時になるべくショックを受けたくないという、保身からでもある。
信じたことを裏切られるのは辛いし、信じた人に裏切られるのも怖い。
菊乃は弱くて臆病だった。
いつも自分に逃げ道を用意していた。
傷つかぬように、後で悲しまなくても良いように。キリアンは子供だから、その内菊乃に飽きて、来なくなるかもしれないし、ユーイに止められるかもしれない。キリアンと菊乃の繋がりはとても不安定なものだ。本当は友達とすら、言えるのかも怪しい。
こんな日がいつか来ると覚悟していた。
だけど。
待っててね、とキリアンは言った。あの子は、約束を破るような子ではない。だから、菊乃は不安から抜け出す事ができなかった。
次の日、菊乃はジェレミーに外へ出る事を禁じられた。
昨日雨に濡れて体を冷やしたせいで、熱を出したからだ。熱といっても、ほんの微熱程度だったが。
「いけませんよ」
ベッドから起き上がろうとする菊乃を、ジェレミーは押し留める。
「今日は大事を取って寝ていてください。ユーイ様がいない時に貴方にもしもの事があれば、僕が叱られます」
3日ほど前から、ユーイは家に帰っていないらしい。
理由は知らないが、とにかくあのユーイが、菊乃が病気になったところでジェレミーを叱るとは思えなかった。ユーイにとって、菊乃は特に意味の無い存在だ。むしろ厄介者だと思われているかもしれない。
大体、ほんの少し熱があるくらいで。
「キクノ」
菊乃の気持ちを見透かしたかのようなタイミングで、ジェレミーは諌めるように菊乃の名前を呼ぶ。
影が落ち、息を飲む。
上から覆いかぶさるように、顔を覗き込まれた菊乃は固まるしかなかった。顔が近い。近すぎる。灰がかった青の瞳に落ちる睫の影までが確認できてしまう。彫の深い綺麗な顔は、さぞかしもてるのだろうと推測できるし、本人も女性の扱いに手馴れている様子だった。
流石にうろたえ赤くなる菊乃に、ジェレミーは微笑んだ。
「良い子だから、大人しくしていてください」
囁くような甘い声に、何も言えなくなってしまう。黙っているのを肯定と取ったのか、ジェレミーは離れていく。わけの分からない緊張から解放され、ようやくまともに息ができる。
「後でまた様子を見に来ますから。それまでゆっくり休んでいてください」
念を押すように告げて、ジェレミーは部屋を出て行った。
心臓が早鐘を打っている。
(一体、何)
吃驚しすぎて、何も言えなかった。ジェレミーは元からスキンシップが多い人だが、今日のは流石にやりすぎだと思う。
(何か、誤魔化そうとしてた?)
菊乃は勘が良い方だ。特に嫌な予感はよく当たる。
何かあったのだ。熱を理由に、菊乃を部屋に押しとどめたという事は、多分菊乃に関係する事だから。それも、菊乃に報せたくないような事。昨日の、今日で。どうしても結びつけてしまうのは、昨日現れなかったキリアンの事だ。
どうしよう。
思わずシーツを握る手に力が入る。
キリアンに何かあったら。ここに来ていた事で、何か問題があったのかもしれない。胸に湧くのは後悔だ。やっぱり、話しかけたりするべきでなかった。
勿論、まだ本当にキリアンに何かあったと決まったわけではないが、不安は膨らむ一方だ。
確かめないと、とても寝ていられる気分ではない。
部屋を抜け出す言い訳を考えて、菊乃は部屋をぐるりと見渡した。目に付いたのは、ベッド脇にあるサイドテーブルに置かれた、水差しだ。
「………」
迷った末にそれに手を伸ばした後、更に思い悩む。
水を飲もうとして、中身をベッドに零してしまったという事にしたらどうだろう。シーツの替えは部屋には無いから、貰いに行く事ができる。だが、わざとマーサの仕事を増やすような真似をするのは、悪い気がした。
菊乃は溜息を吐いて、水差しを元の場所に戻した。
ここは正直に話そう。誰かにこれ以上迷惑をかけるよりは、自分が怒られた方が気が楽だ。
菊乃はそっと立ち上がり、裸足に皮の靴を履いた。寝ていたために、薄い布地の夜着のままだったので、緑色のレース網のケープを羽織る。首元に白いリボンのついた夜着は、足首までの長さがあるワンピースで、菊乃の感覚からすればこのまま外に出る事に、それほどの違和感は感じないものだった。
確認、するだけだから。
今まで、ユーイやジェレミーの言いつけに従わなかった事は無い。危うい立場にいる菊乃としては、そうするのが一番だと分かっていた。
(でも)
菊乃は小さく息を飲んでから、こっそりと部屋を抜け出した。




