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菊乃の葛藤 3

 怒っている、というは訝っているような顔で、ジェレミーはハイネスを見つめている。ほんの少し眉を寄せ、冴え冴えとした視線を返すハイネスを、まるで些細な変化も見逃さないというようにじっくりと観察した後、つめていた息を吐いた。

「自覚はない、といったところですか」

「なーによ。どういうことー?ハイネちゃんが何かしたわけー?」

 そうだ。ハイネスが一体何をしたというのだろう。

 思わずハイネスの顔を見上げて、その近さに我に返った。倒れかけたところを抱きとめてくれたままの体勢だ。彼の両腕は菊乃の体をしっかりと抱きかかえている。

「!」

 気がついたとたんに、顔が熱くなった。

 反射的に身を起こそうとするものの、だるくて力が入らない上、ハイネスの腕は強固だった。当のハイネスは、ジェレミーとの睨み合いの最中で、そんな菊乃に気がついてくれない。このどうしてか緊迫している場に関係ないことで口を挟む勇気はないし、こんな状況で意識して恥ずかしがっている自分の方が場違いにも思えてきた。


 どうしようもない。


「ハイネス・ユーゴ。君の能力は、他者の力や生命力を吸い取るものだと聞いています」

「異界の能力よねー」

「ですが、今のはなんというか……」

 顎の下に手を当てて、ジェレミーは思案するように間をおいた。

「循環しているように見えました」

「つまりー……どういうこと?」

「……待て」

 ジャンナの言葉に、ハルラックの声が重なる。

「上に何かいる」


 上?


 一斉に、全員の視線が上に向けられた。冷たい色の天井。素材が何でできているかは知らないが、硬く丈夫そうである。耳を澄ませば、微かに何かが這うような音が聞こえた。

「なにかしらー、ネズミ?」

 ジャンナがぽつりと言った直後、がこんと大きな音がした。思わずびくりと体が揺れる。更に警戒する彼らから少し離れた場所にある、天井のパネルになった部分が大きな音を立てて落ちてきた。灰色の煙がもうもうと上がり、あっという間に周囲を覆う。少し遅れて、物凄い悪臭が鼻を刺激した。

「……っ!」

「いっやー、くさ、くさすぎるわー!なにこれ最低ー」

 様々なものを腐らせたようなどぶの臭いだ。目に沁みる。

 べちゃっとした音がした。反射的にそちらへ顔を向けると、一番濃い煙の奥に小柄な人影が見える。

「やれやれ、やーっと見つけたよ」

 若い女性の声だった。どこかで聞いたことがあるような。

「思ったより手間取っちゃった。でも間に合ったから良いよね?時間がないから率直に言うけど、敵対者を倒すためにあたしと取引しない?」


 敵対者、を。


「協力してくれるなら助けてあげるよー?あたしの考えた方法なら、誰も死なないから大丈夫」

「…………」

「………ん?」

 なんともいえない沈黙。

 一番困惑していたのは、シリアスな空気をぶち破って登場した張本人だっただろう。全身へどろにまみれた酷い恰好の女性は、亀裂の入った辺りを見渡し、最後に菊乃を見た後あちゃーと言いたげな顔になった。

「もしかして、出るタイミング完全に間違っちゃった感じ?」

 やはり聞き覚えのある声だった。誰かと考えるまでもなく、隣で硬い声がした。

「まさか……、ナナミ」

 その名前にはっとする。

 七海・ルルルイエ。散々警戒しろと言われた相手だ。べっとりとした泥が顔にまでついているせいで、容姿はよく分からない。だが彼女は、想像するよりもずっと小柄で、気さくに見えた。

 とても、そんな悪い人には見えない。

「や、ジェレミー久しぶりだね。聞きたいんだけどさ。敵対者どうやって倒したの?」

「普通に聞いてこないで下さい。素直に答えるとでも思っているんですか、あなたは」

「けちけちしないでよ。昔はあんなに懐いてたのに」

 冷ややかな態度に軽く肩を竦めつつ、七海は菊乃をじっと見つめる。

「跡形も残らず消えてるってことは、この子の仕業なんでしょ。でも、じゃあ何で生きてんの?」


 真っ直ぐに向けられた茶色の瞳に、何だか責められているような気がした。

 今度のは、今までとは違う。ずっと、意識が残っていた。もう手遅れで、ああするより他にないと思ったのも覚えているし、あんな形をしていても元は人であったのだとも何故か理解できていた。

 それでも。

 迷えなかった。

 選んだのは、間違いなく菊乃自身だ。


「いい加減にしてください。貴方は自分の立場を分かっているんですか」

「そうよー、不法侵入よー。まぁ、そんなにまでなって来た根性は認めるけどねー。私はごめんだわー」

 鼻をつまみながら、ジャンナがジェレミーを加勢する。

「良いのー?そろそろ異変に気がついて誰かが見に来る頃だと思うけど」

「ま、その辺は抜かりなく。向こうだってそれどころじゃないよ、今はきっと。だから、まだ時間はあるんだ、残念だね」

 まだ何かあるのだろうか。

「おっと、そんな怖い顔しないでよ。予定狂っちゃったけど、あたしはキクノ・サカマキを助けるつもりだったんだよ?」

「誘拐する、の間違いでは?」

「その辺は、見解の相違だよ。決めるのはキクノでしょ。ここにいたって良いことないよ、どうせ良いように使われて、利用されて、壊れてぽいっ。使える異世界人の利用方法なんて、昔っからそうだ。言ったよね。嘘つきなこの国に、騙されて利用されないでって」

「随分な言いようですが、それは貴方も同じでは?」

「そりゃまぁ、完璧善意ってわけじゃないけどさ。こっちはちゃんとキクノもなんとか助かるよーに考えてあるんだよ。一緒にしないでほしいな」


 ちらり、と菊乃を見てから、七海は肩をすくめた。


「なんか、もしかしたら無駄かもしれないけどね」

「そう、無駄ですよ。分かっているのなら、大人しく投降してください」

「それは無理だよ。あたしにはまだやらなきゃいけないことが残ってるんだ」


 やらなくてはいけないこと。

 その言葉に菊乃ははっとした。そうだ、自分にもやらなくてはいけないことがあった筈。思い至った瞬間、血の気が下がった。

「志真ちゃん……!」

 どうして忘れていたんだろう。

「ん?」

「志真ちゃんをどうしたんですか!?」

 悠長に話をしている場合ではない。床に広がった血の量は、決して少なくなかった。ちょっとでも早く志真を見つけなくてはいけない。

 取り返しのつかないことになる前に。

「シマちゃん?それ、今回の世界喪失者の一人のハイタニ・シマだよね?」

 七海はうーんと首をひねる。

「残念だけど、あたしは知らないよ」

 嘘を言っているようには見えなかったが、ジェレミーは疑うような視線を向ける。

「本当ですか?」

「嘘じゃないよ。何って言うか、あたし達はお互い利用しあってるだけで、相手の目的なんかよく知らないからさ」

「どういうことです?」

「うーん……なんて言えば良いかな。前の襲撃の時もそうだけど、ここの守りって結構なものだし。個々に目的を果たすのって、ちょっと難しいんだよ。だから、お互い協力しあってるってわけ。敵の敵は味方ってやつ。って言っても、同じ日の、同じ時間に事を起こすってだけなんだ。他のことは殆ど知らない……というより、知らないようにしてる。いざって言うときにいろいろ困るし」


 七海の言葉を深く考えている余裕はない。ただ、彼女は志真がどこにいるのか本当に知らない、ということだけははっきりしていて、それだけ分かれば十分だった。


 探さなきゃ


 少し休めたおかげか、先ほどよりだるさは治まっていた。これなら問題なく探しにいける。だが、不安だった。

 見つけられるだろうか、間に合うだろうか。


「あたしが探すの手伝ってあげるよ」


 絶妙なタイミングで、七海が声をかけてきた。思わず目を見張る菊乃を見返して、猫のように笑う。

「ねぇ、キクノ。これは取引だよ」

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