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菊乃の葛藤 2

 キクノはどんな人間かな。

 ほんの僅かな時間でのやり取りを思い出す。怯えていた。ひ弱そうな少女だったけれども、慎重にこちらを伺う冷静さを備えていた。大人しそうな少女に見えたが、実際は分からない。人はとても複雑なものだ。殆ど一方的に喋っただけだし、相手の人となりを見極めるには足りない逢瀬だった。

 だが。

 他の、キクノと同じ場所から来た異世界人2人のことは、知っている。その内の1人の方は特に深く、知ったつもりだ。

 一見苛烈で粗暴に見える男が、意外に不器用で繊細であること。乱暴者のわりに、優しい……甘いともいえるような隙を持っていること。平和な世界で育ってきたんだろうな、と推測させる純粋さを彼は持ち合わせていた。

 その彼の弟である男もまた、同じだ。用心深く、猜疑心に溢れ、自己中心的な思考を持っている一方で、周囲の人間の困難に敏感に気がつき、無視しようとするも結局できないお人よしな側面を持ち合わせている。

 同じ世界、それも同じ国から来たものであれば、当然思考や倫理観は似てくる。一本も二本もネジが外れたような輩は別にして。


(だから、きっと)


 七海はぐっと奥歯を噛み締めて、狭く暗く臭いその場所を這い進む。人が見たら顔をしかめそうなへどろ塗れの姿で、一筋の光も見つけられない先をぎらぎらとした目つきで睨みつけながら。

(できる……やりとげて、みせる)



 後ろ髪引かれる思いを振り切って、菊乃は目的の部屋へ急いで向かった。その部屋へうまく誘導することが出来れば、戦わずして捕獲することができるらしい。分けて増やすことによって弱体化した敵対者ならば、という事だった。

 つまり、もしもここに来ているのが各務吹雪だった場合、この作戦は失敗する。幸い、彼が来ているという情報は無いが、油断はできない。

(急いで)

 息を切らせながら、細い通路を進む。

 こちらを早く終わらせれば、志真を助けに行くことができるかもしれない。その思いから、菊乃の足は自然と速くなる。緩やかにカーブする通路を曲がると、再び壁が現れた。侵入者を防ぐ為の防犯シャッター、みたいなものだ。

「はいはーい、ちょっとしっつれい」

 軽い調子で言いながら、脇の壁にはりついて隙間を空けた菊乃の前を通り、手馴れた仕草で壁の穴に棒状の解除キーを差し込むジャンナ、だったが。

「あらら?」

 うんともすんとも反応しない壁に対して、整えられた眉を顰めた。

「なぁに、やっだー、まさかの故障かしら?」

 困っちゃうわぁ、と全然困っているようには聞こえない声で告げる。

「真面目に言っています?もう一度試してみてください」

 ジェレミーの苦笑に、何か固いものが混じっているように見えた。緊張……、微かな焦りのようなもの。ジャンナは再び鍵を差込み、やはり何の反応も示さない壁を前に両手を上げた。お手上げだ。

「駄目みたいねぇ」

「このタイミングで……偶然とは思えないですね」

 溜息と共に、さりげなく握ったままの手に力が込められる。じわじわと何だか嫌な気配が忍び寄っているような気がした。自然と、体が強張ってしまう。

「何とか壊せない?」

「そう簡単に壊れるようなものじゃ困るでしょう。一応、対敵対者も意識してのものですから。あれを、完全に防ぐことは難しいですが、足止めくらいにはなる程度に丈夫に作ってありますので」

「足止め……それだわ。こっちへくる道、もう一回閉じちゃえば。ちょっとくらいは時間を稼げるんじゃない?」

「それじゃ、間に合わない」

 と、ハルラックの静かな声。冷静に事実を告げる声だった。菊乃の肌が粟立つ。ずる、と何かを引きずるような音が聞こえたような気がした。生臭い、腐ったような匂いが鼻をつく。薄暗い通路の向こうから、ゆらゆらと近づく影が見えた。

「ここで迎え撃つより仕方ありませんね」

「冗談……じゃないみたいね。嫌だわー、ここじゃまともに相手できないわよ。キクノちゃんがいるから何とかなるかもしれないけど」

 突然名前を呼ばれたことに、小さく肩がはねてしまう。

「嘘、嘘。キクノちゃんに何とかしてもらおうなんて思ってないから、睨まないで」


 怖い。


 自分にあるという力のことは、未だに良く分からない。その力を使うことはとてつもなく菊乃の身体に負担をかける、次に使えば死ぬかもしれない。けれど、死ぬのが怖いというのは違う気がした。悩んでいる暇はない。遠く塊のように見えていたそれが、ゆっくりと這うように進んでくる。

「あ、ああ、あ」

 ひしゃげた口の間から、言葉にならない声が漏れる。それは、辛うじて人の形をしていた。人を粘土のように丸めて、伸ばしたような無茶苦茶な形でも、人だと分かる。だから時計に恐ろしかった。

 動けずにいる菊乃を残して、ハイネスが剣を抜き前に出た。咄嗟に彼の左手を掴んでしまった。

「キクノ」

 少し驚いたような顔のハイネスに対して、菊乃もまた動揺していた。意識しての行動ではなかったからだ。

「……離せ」

「ダメ、あれ……、無理。きっと」

 ハイネスでは勝てない。彼が弱いからではなくて、この場の誰も、たとえ力を合わせても勝てないのではないか、そんな予感がしていた。

 勝てないという事は、死ぬということ。


 あれは、呪いだから


 すっと、そんな言葉が浮かんだ。


 還してやるしかない


 それは自分にしかできないことだ。ぎゅっと震える掌を握り締めて、菊乃は決意する。大丈夫、きっと。怖いけど平気だ。死ぬかもしれない恐怖心よりも、自分にもできることがあるのだという事の方が大きかった。

 こんな自分でも、皆を助けることができる。

「私が、やります」

「馬鹿を言うな」

 しかし、恐怖を追い払って告げた言葉は、あっさりと一蹴される。

「後ろにいろ」

 掴んでいた手を振り払われて、ハイネスが前へと進むので、菊乃も慌てて追いかけた。

「ま、待って」

 ハイネスの向こうに迫る茶色が見えた。ゴムのように伸びてくる身体の一部。もしかしたら腕なのかもしれない。それを見た瞬間、視界が青く染まる。同時に、それが止まった。


「キクノ!」

 

 濃密な水の気配。清浄な、よく知る気配を感じてハルラックは叫ぶ。彼女は彼が仕えるべき神。だが、その出現は菊乃という少女の命を奪っていく。

 白すぎる少女の顔から、表情と言うべきものがごっそりと抜け落ちていた。瞳の奥で、青い炎が揺らめいている。そこにいるのは既に水の女神で、ハルラックには触れられぬ存在だった。

「キクノ、駄目だ。戻れ」

 触れられず、ただ呼びかけを繰り返す。

「キクノ!」

 不意に横から伸びた腕が、菊乃の肩を掴む。ぎょっとした。ハルラックの動揺を他所に、ハイネスは険しい顔で菊乃の肩をゆする。

「聞こえないのか、キクノ!」

「よせ、お前が触れていい相手では……」

 ハルラックの言葉を止めたのは、菊乃の口元に敷かれた笑みだった。いや、薄っすらと微笑んでいるのは菊乃でなく、水の女神ミリニエルか。何故笑うのか、困惑の最中ぐっと空気が重くなった。

 少女の瞳に揺らめく青い炎が輝きを増す。


 つい、と伸ばされた白い華奢な指が、動きを止めたままの肉塊に触れる。途端に内側から震えるように波打った。塊だったものが液体に変わる。赤黒い色を塗り替えるように、細かな白い泡がいくつも浮かび敵対者を覆い隠していく。

 溶かされているようだった。

 小さく、薄く、泡の中で塊が小さくなっていく。やがて完全に色が見えなると泡も消え、ただ濡れた床だけが残った。

 同時に女神の気配が遠ざかる。

 ふらりと菊乃が身体をふらつかせるが、未だしっかり彼女の肩を持っていたハイネスが、すかさず受け止めた。青白い顔で、硬く目を瞑る菊乃にハルラックの気は重くなった。知らず、握っていた拳に力が入る。


 俺は、また。


「キクノ……?」


 どこか不安そうに、ハイネスが菊乃の名を呼ぶ。ハルラックの予想に反して、返事があった。

「は、はい……、あの、大丈夫」

 弾かれるように顔を上げ、自分の目を疑う。気だるげに半ば伏せられているものの、菊乃の青い目が開いている。生きている、どころか気を失ってすらいない。

「身体は?おかしなところはないか」

「え、あの、はい。少し、だるいですが」

「……何だかよく分からないけど、どうにかなっちゃったわねぇー、良かったじゃない。キクノちゃんも無事みたいだしぃ。あれかしら、突然才能がぱっと目覚めちゃったみたいな」

「違いますよ」

 否定したのは、気難しい顔をしたジェレミーだった。

「貴方、今一体何をしたんですか」

 問いかけの先にいるのは、ハイネス・ユーゴである。

遅くなって大変申し訳ないです。

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