菊乃の葛藤 1
遠くで非常を告げるアナウンスが響いている。
外部からの進入者による施設破壊。そんな状況だというのに、それほど恐れは感じなかった。たとえ、彼らの狙いが自分にあるとしても。
事前に知っていたからこそ、心の準備ができていた。突然襲われるのとは大違いだ。
「大丈夫ですか、キクノ」
地下に入ってから何度もそう聞いてくれるジェレミーに、菊乃は大丈夫ですと静かに答える。だから、手も離して欲しい、と握られた手に何となく視線を向けてしまうが、果たして通じているのかいないのか。手が離されることはなかった。
彼は相変わらず菊乃を子供扱いする。実際大人とはいえないので良いのだが、やはり少し気恥ずかしいというか気まずいというか。
ここにはジェレミーと菊乃だけで来ているわけではない。ハイネスもハルラックもジャンナもいるのだ。
何となく、物言いたげな視線を感じるのは、気にしすぎだろうか。
諦めて先へ進むと、不自然な位置で行き止まりにぶつかった。
押したところでびくともしない、頑丈で分厚そうな金属の防壁。
「ジャンナさん、お願いします」
「りょうかーい」
にっこりと笑い、ジャンナが首に掛けていた銀色の棒を外した。
中心にある丸い窪みに、銀色の棒を差し込むと、扉に奇妙な模様のようなものが浮かび上がった。淡く点滅する模様に、ジャンナが素早く触れていく。指先に触れられた模様は位置と向きを変え、それを8度ほど繰り返した後でようやく壁が上がった。
対侵入者用の防壁だ。
囮として地下へ送り込まれた菊乃達には、一応その壁を解除する術も与えられている。壁が半分ほどまで上がった時点で、すぐに動こうとした菊乃をジェレミーが押し留めた。
「先行は彼に任せましょう」
そう言った時には既に、ハルラックが長身を折り曲げて壁の下をくぐっていた。
「ハルラックさん」
心配で思わず掛けた声に、彼は振り向きもせず言った。
「キクノはここに」
静かだが、有無を言わせぬ口調だった。
ぴりぴりした緊張感に、身が竦む。彼は血の匂いがすると言った。その後で志真の名を出したということは、一体どういう事になるのか。予想はつくけれど、考えたくない。
(どうして、シマちゃん……)
本当に志真がここにいるのだろうか。ハルラックの鼻は確かだ。だとしたら何故志真がここにいるのだろう。自分と同じように、囮としてここへ来ていたのだろうか。そんな話は聞いていなかったが。
非常用電気の薄暗い灯りの中、暗闇に消えたハルラックはすぐに戻ってきた。
「何かありましたか」
ジェレミーの問いに、ハルラックは迷うように目を伏せた。
「何よぅ、意味深な沈黙作ってないでさっさと言ってくれなーい?」
「施設の警備担当職員が3名死んでいる。その内の1人が血だらけだったが、見たところ外傷は無い、返り血なのだと思う。床に、大量の血が残っていた」
「誰の」
「……その場にそれ程の血を流すような怪我をした者はいない」
「志真ちゃんも」
「いないようだ。……匂いは残っているから、その場にいたことは間違いないと思う」
怪我をしたのは、やはり志真なのだろうか。大量の血痕という言葉を思い出して、血の気が下がる。(どうしよう、何で、志真ちゃんが……)
「行っくわよー、やっぱり自分の目で確かめないと埒明かないわぁー」
「ちょっと、ジャンナさん」
「他に敵がいないんならー、別に構わないでしょー。ハルラックの鼻は利くもの、信用してるわよー」
マイペースを崩さないジャンナは1人で勝手に奥へと進む。震えそうになる唇を噛み締めて、菊乃もその後に続いた。
菊乃の鼻でも血の匂いを感じ取れた辺りで、人影が見えた。心もとない青白い灯りの下、ぐったりと床に横たわっている。白い服に身を包んだ、施設職員だ。倒れた男の横の辺りに、どす黒く広がる血溜まりがある。
相当の量だ。
人は血を失いすぎると死ぬという事は常識だが、それがどのくらいの量なのかまでは分からない。確か3分の1程度だとか聞いた事がある気がするが、血の量を見て判断できるような知識は無かった。
ただ、これだけの量の血が流れたら、ただでは済まないという事くらいは分かる。
「変よねぇ」
床に顔を近づけて観察していたジャンナが首を傾ける。
「怪我人なのか、死体なのか分からないけど、どうやって移動させたのかしらー。移動させたなら、どこかで擦れたような跡が残りそうなものだけど何もないし。それに肝心の凶器も無いわぁ。犯人は、この人みたいなのにねー」
「事情を聞こうにも、亡くなられているようではね」
「貴方あの魔法使いの弟子なんでしょうー?何とかならないのぉ?」
「なりませんよ」
死体や血痕を調べながら、ああだこうだ言い合う2人をぼんやりと眺めながら、菊乃は首元に手をやった。何だか息苦しい。うまく呼吸ができない気がする。
「……大丈夫か」
「っ!」
そっと肩に触れた手に、菊乃はびくりと身を竦ませた。弾かれたように顔を上げた菊乃を見つめる紫の瞳が、僅かに驚いたように見開かれている。ハイネス・ユーゴだ。薄い表情の中に辛うじて分かる変化から、どうやら心配してくれているらしいと分かって、申し訳ない気持ちになった。
「ご、ごめんなさい、びっくりして」
「いや……驚かせて済まない」
小さく首を振って、菊乃は息を吐き出した。しかし、身の強張りを解いたところで、再びジャンナの大声に飛び上がる羽目になる。
「そーだ、ハルラック・エジ!」
「……?」
「貴方、匂いが辿れるんでしょう?これだけ出血しているんだし、簡単にできるんじゃないのー?」
ジャンナの期待に満ちた視線に対して、ハルラックは眉根を寄せた。
「いや」
「何よー?犬みたいな真似は嫌って言うのぉ?」
「そんな事じゃない。単に……この血の匂いはここから移動していないんだ。ここで途切れている」
「……何それ、どういう事」
「分からない、だけど」
一呼吸置いて、ハルラックは眉間の皺を深くした。
「シマの匂いもここで消えている」
ぞっとした。
それが一体どういう事なのか。
考えを纏める暇はなかった。ジェレミーの持っている通信機が音を立てる。ビーっという甲高い音の後に、ユーイ・ユーイの切迫した声が響いた。
『すぐにその場所を移動しろ!近くに敵対者が来ているぞ!予定通り、白の部屋に誘導しろ!』
「キクノ、こちらへ」
素早く立ち上がったジェレミーに腕を引かれるが、素直に従うには志真のことが気掛かりだった。
「でも、志真ちゃんのことが、まだ」
「姿の無い彼女の事を心配しているような余裕はありませんよ。今はとにかく、こちらを何とかしないことには」
「でも!」
志真は怪我をしているかもしれないのだ。それも、命に関わるような。
「駄目ですよ、キクノ。作戦の成功だけを気にしているわけじゃありません。もしもこの場で敵対者と接触した場合、一番危険なのは貴方なんですよ」
敵対者を何とかできる力がある、と。
だから狙われている、そう言われてもいまひとつぴんとはこない。その力で菊乃自身が死ぬかもしれないという事も。そうなるだろうと分かっているのに、実感は湧かない。
「それに、既に敵対者はこの中にいる。ここで失敗すれば、もっと大勢の人間の命を危険に曝すことになります」
畳み掛けるようにジェレミーが言う。
その言葉に菊乃は怯んだ。自分の行動一つで、人が死ぬかもしれない。そう言われたらもう何も言えない。
「さぁ、早く」
再び腕を引かれる。今度は抵抗できなかった。菊乃にできるのは、ただ志真の無事を祈ることだけだ。そしてそれが何の助けにもならないことを、菊乃は良く知っていた。




