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菊乃の葛藤 4

 暗い色のへどろを全身にこびりつかせ、異臭を放つ女がにんまりとした笑みを浮かべる。

 獲物を見つけた猫……、いや、もっと性質の悪いもの、例えば悪魔のような。


「ねぇ、キクノ。これは取引だよ」


 目を丸くした菊乃が反応するより先。

「駄目だ」

「却下します」

「取引はしない」

「しないわよー」

 他の全員の声が揃った。

 上から順に、ハルラック、ジェレミー、ハイネス、ジャンナである。それに対して、七海はえぇーっ、と不満そうに高い声を上げた。

「他の人には言ってないよ。あたしはキクノに聞いてるんだ。ね、キクノ」


 口を尖らせ、更にこてん、と細い首を傾ける七海・ルルルイエ。ひどく無邪気な仕草だったが、その目は油断ない輝きを見せている。

「どう?」

「……さっき、貴方は志真ちゃんのこと知らないと、言いました」

「うん、知らないよ。でも、探す事はできるし、見つけられるかもしれない。……あたしなら」

 本当だろうか。

 今はとにかく時間が惜しい。考えている暇はなかった。

「ごめんなさい。私、貴方のことを信用できない。……でも、もし本当に、志真ちゃんを見つけて、助けてくれたら」

「キクノ!」

 ジェレミーが、咎めるような視線を菊乃に向けているのが分かった。そちらを見ることができない。おろかな行為だと分かっているから。

 でも。

 本当に志真を助けてくれるなら。自分にできることなら、何を要求されても良いと思った。誰かを殺せとか、そういうのは困るし、頼まれてもできやしないが。

「そんなに難しいことを頼むつもりじゃないよ。あたしはただ」

 何を言おうとしたのか。

 七海の言葉は不自然に途切れた。素早く振り返る彼女の向こうに、いきなり人が現れた。


 え。


 思わず瞬きを繰り返す。

 どんなに瞬きをしても消えない。錆びたような赤茶の髪に、緑に金を混ぜたような色の瞳の青年はゆっくりと口を開いた。

「やぁ、久しぶりだね、ナナミ・ルルルイエ」

 そう穏やかな笑みを見せる人物は、ユリウスだ。

 幻などではない、本物に見える。だが、細い通路に隠れるような場所はないというのに、ここまで歩いてくるところは見えなかった。七海のように上から下りてきたのでもない。一瞬でそこに出現した、ように見えた。

「私がここに来た意味が分かるか?」

「………わざわざ警備を手薄にしたのは、こうしてあたしを迎えに来てくれるため?」

「警備を手薄にしたわけではないよ。単にそれ以上人を割けなかっただけでね」

 ユリウスは、目を細めた。

「私と同じ転移魔法を使える君を捕まるのは難しい。だから、こちらも考えたんだよ。その他を捕まえてしまえば良いのではないか、とね」

「………」

 七海の表情は菊乃の位置からは見えない。だが、纏う空気が険しくなったような気がした。

「君だって考えていなかったわけではないのだろう。報告された子どもも異世界人たちもいなかった。潜砂船にいたのは、最低人数のクルーと………フブキ・カガミだけだ」


 フブキ……。

 その名に思わず息をのむ。菊乃と同じ日本人で、伊吹の兄だという人で。敵対者という存在に寄生されてしまった人。複雑な思いが去来する。


「どうする?」

 相手を挑発するような余裕の態度で、ユリウスは問う。

「一人で逃げるか?」

 緩やかに、だが確実に追い詰めていく。

 彼の相手は菊乃ではないのに。ただ見ているだけで息苦しくなった。細い背中が、今は一層小さく見える。

「キクノ」

 こちらを見ないまま七海は言った。


「フブキを助けて」


 耳に馴染む日本語の響きに、菊乃ははっと目を見開いた。




 七海はそれ以上の抵抗はしなかった。

 遅れて現れたケラスの者たちに大人しく連れて行かれた。へどろまみれの彼女に、ケラスの奴らが苦い顔をしていたことや、この国の王子が一人で乗り込んでくるという無謀に対して思うところがあったが、全部がどうでも良いような気分だ。

 七海・ルルルイエが捕まった。

 彼女は色々と厄介な女性だった。異世界人を祖父に持つ、かつてはユーイ・ユーイと肩を並べ、異世界についての研究をしていた人で、一時はユーイの片思いの相手であり、ジェレミーにとっては姉のような存在だった。

 一時は完全に消息不明で、生きているかすら怪しくなっていた。どこかで、心配する気持ちもあったが、対立するようになってからは、ただひたすらに厄介な相手でしかなかった。

 彼女は数少ない魔法使いであり、転移魔法が使用できる。普段、施設内にはそれを防ぐための防御結界が敷かれているのだが、この状況でまだ機能していると考えるほど、ジェレミーはお気楽ではない。現にユリウスは転移魔法で現れたので、その読みは正しかったことになる。

 七海はいつでも自由に逃げることができるし、下手に近づけばこちらが飛ばされるかもしれなかった。最悪なのは、菊乃を連れて逃げられること。

 そう思って、警戒し様子を伺っていたのだが。


 まさか、ユリウスが現れるとは。


 予想外の展開だった。

 同時に七海のアジトである船を叩いているとは、ジェレミーも聞いていない。どうやらケラスとの合同作戦のようだが、ユーイ・ユーイは知っていたのだろうか。

 知らされていないとしたら、今頃荒れているかもしれない。

 仲が良いとは言っても、ユリウスは王家の人間だ。気安く見えても、重要な仕事に私情は挟まない。七海と近い関係にあったジェレミー達に、重要な策を黙っているのは当然ともいえるが、ユーイとしては面白くないだろう。そんな師のことも、七海のことも気になるが、今は。


 ジェレミーは、ユリウスと話す少女へと視線を移した。

顔色は良くなってきているが、未だ青い。それを気にしてか、未だハイネスが傍に控えていた。流石に抱えてはいないが。

 話の内容は行方不明になっている志真のことのようだ。

「シマのことは、勿論こちらでも探している。しかし、どうもこの施設内にはいないようだな」

 途端に瞳が不安そうに揺れる。

「全ての可能性をかけて、探す気ではあるが。……心配なら、君も探せば良い。特別に許可するから、ハイネスとハルラックを連れて行くと良い」

「ありがとうございます」

 礼を言ってから、菊乃は迷うようにユリウスを見上げた。

「なんだ?」

「あ、の。……吹雪さんは」

 言いかけて、やめる。菊乃はあれで勘が良い。臆病な性質だからなのかもしれないが、踏み込むべきでないところをよく分かっている。

「なんでも、ないです。ありがとうございました。失礼します」

 そう言って、逃げるように踵を返す。だが。

「キクノ」

 優しげにすら聞こえる声音で、ユリウスは行こうとする菊乃を呼び止めて、その頬に手を這わせ上を向かせた。

 間近で視線を合わせ、にこりと笑う。

「良いか。私は君のことを買っている。気に入ってもいる、だから。余計なことはしないでくれ」

「…………」

「私は君の心配をしているのだ。分かってくれるな?」

 圧力に負け、ぎこちなく頷くのを見てようやく、ユリウスはその手を離した。


 えげつない人だ。


 今度こそ逃げるように去っていた菊乃を見送った後、ユリウスはジェレミー達へ目を向けた。

「ご苦労だったな、ジェレミー、ジャンナ。報告を聞こうか。どうなっている」

「どうって言われましてもねー、敵対者を倒したのはお察しのとおりキクノちゃんなんだけどー」

「弱ってはいたが、ぴんぴんしていたな。どういうことだ」

「さー?」

 ジャンナはちらりとジェレミーへ視線を投げかけた。


 異界から得た力を使用した菊乃が生きている、どころか倒れもしなかったこと。勿論、良いことなのだが。


 ハイネスが一体何をしたのか。


 それが分からない以上、次も同じようにいくとは限らない。偶然である可能性も否定できないのだ。菊乃の体を覆った真っ白な光が、ハイネスへと流れた。同時に、彼の体を巡った青白い光が彼女へと流れる。

 一応魔法使いの端くれであるジェレミーだからこそ、見えた光景なのだろう。もしもそこに七海やユリウスがいたらきっと見えていただろう。

 もう一度同じことができるか試してみたい。

 そう思う一方で、ジェレミーは迷っていた。果たしてこのことを、ユリウスに告げるべきか否か。

 ……馬鹿なことを。

 思わず首を横に振って自嘲する。

 ジェレミーの立場上、伝えないという選択肢はありえないのだ。その事が残念だった。

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