伊吹、無謀で無駄なあがきを始める 1
菊乃達と別れ、保護施設の通路を歩いていた伊吹は足を止め、振り返った。後ろから男が2人ついて来ている。一人は護衛のジェスで、もう1人は。
凍て付くような紫色の目をした銀髪の男。ハイネス・ユーゴだ。姉と同じく褐色の肌で、滅べと言いたくなるような美形だが、ルーミケラウスにはあまり似ていない。妖艶で情熱的な彼女に比べ、彼の方は氷の彫像ですといった雰囲気がある。
2人が並んでいても、おそらく姉弟には見えないだろう。そんな事を考えつつ、いつまでもこうして黙ってにらみ合っていたところで話が進まないので。
「何か用ですか」
「何故、キクノに先程の話をした」
静かな声と、無表情。しかし、ハイネスから恐ろしい威圧感みたいなものが、漂ってきている。
「ルーミケラウスが生きていると、その事を告げたのは良い。だが」
その後の事は余計だったと、それは伊吹も分かっている。
伊吹はそれほど菊乃という人間を知らないが、何となく慎重で臆病そうな印象を持っていた。その上どうも、自分の身にあまり執着を持たない性質らしい。誰かが助かるんだよ、といえば、黙って犠牲になってしまいそうな。
正に打ってつけの生贄役。
言わない方が良かったかもしれない。今では伊吹もそう思うが。
「事前に知って、考えておく必要があると思ったんですよ」
「?」
「俺達が解放された時、ユリウス殿下宛の信書を持たされたんです。中身は信書というより、脅迫状でしたが。内容は、敵対者に寄生された者を救う手段として、坂巻菊乃の力が有効であること。それを証明する為に、坂巻菊乃の身柄を一時的で良いので渡して欲しいということ。さもなければ、一連の騒ぎの発端である、召還事故という王家の罪を公表すると」
僅かに眉を寄せたハイネスの背後で、ジェスが大げさに手を振った。
「ばっかじゃねーのか。いつの話だよ」
「馬鹿はあんたですよ。過去の話だから時効だって言うんなら、一般人に伏せておく理由は無いでしょう。事故は過去の事でも、異世界人が来るのは相変わらず続いています。騒ぎの原因がこの国、しかも王家にあると分かったら結構な騒ぎになりますよ」
異世界から来た敵対者によって、家族や恋人、友人を失った者。
何より、異世界から突然こんな世界に来てしまった者達は、決して黙っていないだろう。
「貴方には分かる筈ですよね、ハイネス・ユーゴさん」
ルーミケラウスの弟で、同じように異世界の存在に振り回され、不遇の人生を辿った彼にならば。
「どんな結果になるかは分かりませんが、騒ぎになる事は目に見える」
「……その為に、キクノが使われると?」
「こちらもそんなに甘くはありません。反乱分子をこのまま黙って見過ごす事は無いと思います。でも、多分。どちらにしても坂巻さんは」
利用される筈だ。
敵対者に対する武器として。何も知らないまま、良いように利用される。そんなのは、あまりに気の毒で……。
だから、話した?
いや、違う。それだけではない。
帰る前に、伊吹は吹雪の顔を見ている。「最後になるかもしれないよ」という、不吉な七海の言葉につられたわけではないが。
吹雪はベッドの上で横になっていた。微かな寝息の他に、時々ぶつぶつと言葉にならぬ声を漏らして。苦しそうに眉を寄せる。夢でも見ているのかもしれない。
ぎょっとしたのは、シーツからはみ出ている太い腕を目にした時だ。
「何だ、これ……」
思わず声に出していた。
彼の腕に、引っかき傷のような後がいくつもいくつも残っていたのだ。白く盛り上がる薄っすらとした傷は、隙間無く模様のようにその腕を埋め尽くしている。
片仮名だと気がついた時にはぞっとした。
イリア、キーリイエ、ビオ、シューア、サリアン………。
人の名のような、意味を成さぬ文字の群れ。それは、反対側の腕にもあった。
「腕だけじゃないよ、足にもね」
小さく溜息を吐いて、七海は肩を竦めた。
「何で」
「さぁ。アタシにもさっぱり。こういう症状が出るの、フブキが初めてだと思う。薬で押さえつけてるせいなのかな。何日も眠っちゃうっていうのもね初めてで。正直どうしたら良いのか分かんなくて困ってる」
しんとした部屋の中に、七海の溜息が響く。
このまま死ぬのかもしれない。眠る吹雪の姿を見下ろして、伊吹はそう感じた。
「アタシは、何とかしてフブキを助けてあげたいよ。そうじゃないと」
小さく唇を噛んで、七海は伊吹に縋るような眼差しを向けた。
「ね、イブキ。お願いだから、フブキを見捨てないであげてよ」
助けてあげて。
脳裏に残った弱った子猫みたいな目を、何とか追い払おうと努力する。あれだって演技でないとは言えない。七海はそんな女だ。
(しかし)
伊吹は鼻の頭に皺を寄せた。
結局自分は菊乃に伝えてしまった。いずれ、変な形で伝わるよりはと思った事もある。もう1つの理由は。
単に頼まれた伝言を伝えず、黙っているのが辛かったからだ。吹雪を憎んでいる。だが、死ねとまでは思っていない。助ける方法が無いのだから仕方が無いと、そう思えている内は良かった。
だが、可能性があるのなら。
何もしないでいる事が正しいのか、伊吹には分からない。もっと単純な事ならば良かった。だがここへ来て、力を使う事で菊乃の身が脅かされると知らされて、どうしようもない気持ちになった。
(くそう、面倒なことこの上ない、知らなければ良かった)
何故自分が、あんな馬鹿の為に悩まねばならないのか。心底腹が立つ。兄だの弟だの、鬱陶しい。
責任も、義務も伊吹には無い筈だ。
誰が死のうと利用されようと、どうしようもない事で。
…………。
「ハイネス・ユーゴ」
伊吹は腹の底をぐるぐる回る不快さを吹っ切るように、顔を上げた。勢い余って敬語を投げ捨て、ハイネス・ユーゴに詰め寄る。
「あんたはこんなところにいないで、坂巻が早まった真似をしないように、ちゃんと見張っとけよ。後、ちゃんと守れ!」
言い捨てて、伊吹は僅かに目を見張ったハイネスに背を向けて、歩き出した。
「お、おいおい、ま、待て、待て待て」
慌てた様子でジェスがついて来る。この鬱陶しいことこの上無い、図体のでかい赤毛の男。何が鬱陶しいって、どことなく吹雪に似ているところだ。
「お前さ………」
小走りで隣へ追いついてきたかと思うと、太い眉を下げて不気味そうな顔で伊吹を見下ろした。
「頭大丈夫か?」
「……は?」
「いや、だっていきなりきれてハイネスに怒鳴るし、何なんだよ。怖ーだろ」
怖いと、その言葉に伊吹は笑い出したくなった。
得体の知れない未知なる異世界。それが、ずっと恐ろしかった。力も知恵も足りない。他者を圧倒するものなど何もなくて。そんな自分を怖いとか。
しかし、時にハッタリも必要なのだ。
例えばそう、今のように。実現性の低い馬鹿な目的を持ってしまった時には。薄っすらと笑みを張り付かせた伊吹を見て、ジェスはぶるっと身震いした。
「……なんだよ、だから怖いんだよ、お前」
見かけによらず、へたれな男だ。
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