菊乃の理由 2
ルーミケラウスは生きている。
その情報は確かなようだった。伊吹は彼女に会い、話もしたらしい。証拠は無いが、彼がそんな嘘をつく理由も無い。それに生きているのなら、ルーミケラウスの死体が見つからないのは当然で。
生きている。
良かった………、心の上に乗っかっていた重みが少し軽くなった。
でも、伊吹の話が本当だとすると、ルーミケラウスは伊吹達を攫った謎の組織にいるということになる。何となく、ハイネスの顔を見上げると、いつもと変わらないように見える無表情があった。それでも良く見れば、複雑な気持ちになっているのが伝わってくるような。微かに寄った眉の間の皺や、下がり気味の口角の辺りから。
ルーミケラウスが生きているという情報を、彼に報せないようにしていた理由が、何だか分かる気がした。どんな状況にあるにしろ、ハイネスは最終的には彼女を選ぶだろう。
たった一人の、大切な肉親を。
もう、ハイネスは大丈夫だ。大切な人がいるなら、それだけで生きていける。
良かったと思うのに、寂しい。心細くなるような、もやもやしたものが心を塞いだ。
「それで、ハイネスさんはどうするんですか?お姉さんのところへ行きますか」
ぎょっとするような質問を聞いた気がした。質問の主はしらっとした顔をした伊吹で、ハイネスは僅かに冷ややかな顔つきになった。
「どういう意味だ」
「ルーミケラウスさんが言っていたんですよ。弟は重度のシスコンなので、もしかしたら私の味方になってくれるかもしれないと。ここの人達も、皆それを心配しているみたいですね」
「………」
ハイネスの周辺温度が更に低下した、ような気がする。
最早菊乃には、ここに口を挟む勇気は無かった。先程までは緩く耳を塞いでいたジェスも、今はぴっちり耳を覆い音を遮断する事に熱中している様だ。
じいさんは未だ目覚める気配が無いし、頼みの綱のハルラックは我関せずの姿勢をつらぬ手いる。自分もそれに習うべきだろうか。
「ちなみに、ルーミケラウスさん達は、坂巻さんをその仲間に引き入れたいようです」
「え」
どうやら我関せずの姿勢は許されないようだ。
「仲間って、私をですか?」
どうしてまた。
「俺にも良く分からないけど、どうも、坂巻さんには敵対者に対抗できうる力が」
「それ以上口にするな」
鋭い声が邪魔をした。
目を見張った伊吹に、射抜くような鋭い視線を向けているのは、ハルラックだ。ほんの先程まで、眠たそうにも見える様子だったのに。
「ハルラックさん?」
急変した態度に戸惑いつつ呼びかけると、ハルラックは小さく肩を揺らした。眉間に皺を寄せ、蜂蜜色の瞳に苦い色を滲ませる。
また。
時々見る顔だ。ふとした時に、ハルラックはそんな後悔するような顔で、菊乃を見つめる。どうしてだろう。不思議に思いながらも、聞けた事はない。
「ハル君は、キクちゃんが心配なんじゃよ」
気まずい沈黙を破ったのは、眠っていた筈のじいさんだった。よっこらしょ、とゆっくり体を起こしながら、じいさんは菊乃に笑いかけた。
「勿論わしもじゃ」
「どういう事なんですか?」
「さっき、いっ君が言っておったキクちゃんの力は、ちっと人の身には負担になるものなんじゃー。無理して使えばキクちゃんが死ぬ、じゃから、まー、できれば使わん方が良い」
力、無意識に胸に手を当てていた。
じいさんの発言に驚く事は無かった。どうしてだか、もう知っていた気がする。
水の女神、ミリニエル。
どこかぼんやりした様子の菊乃を、ハルラックは不安な気持ちで眺めていた。ミリニエル、彼女が選ぶのはいつもどこか似たところのある少女ばかりだ。菊乃にしても、その例に漏れない。
菊乃にミリニエルの力が宿ったのが偶然でないのだとしたら、恐らくそれは自分のせいなのだとハルラックは感じていた。
この世界に落ちる前は、ハルラックは水の神殿に使える神武官だった。
天上の神々は、時折気まぐれのように人に恩恵を、その力の一部を与えることがある。与えられた者達は神子と呼ばれ、例外なく神殿で暮らすことになるのだが、その者達を守るのがハルラックの役目だった。
水の女神が選ぶのは決まって少女だ。
容姿は様々だが、どこか人目を惹きつける美しい者達が多かった。性格も様々で、気の強いものから、大人しすぎる者まで。ただ、どのような性格であっても自分より他人を優先する気質を備えていた。
自己犠牲を厭わない娘たち。
それが神に選ばれる条件なのだとしたら、その結果は悲劇でしかない。
神の力は人の脆い体には負担となるのだ。ハルラックは何度も、他人のために、世界のためにその身を投げ出す者達を見て来た。それが正しい光景なのか分からないまま。同じ時を繰り返して。
あの世界から切り離された後も、ハルラックは彼の神に祈りを捧げ続けた。それはもう、殆ど習慣のようなもので、依る術もない世界で生きる為の拠り所にもなっていた。
だから、菊乃達がこの世界に落ちてきたあの日。
あの時にもハルラックは祈っていた。
海で溺れる菊乃を見つけたのは、偶然ではない。恐らく、彼女をそこに呼んでしまったのは自分だ。菊乃に触れて、微かなミリニエルの力を感じ取った時に、ハルラックはそう確信していた。
(だから、俺は彼女を守らなければならない)
義務感から彼女を見守り、害が無いようにしてきた。その中で、言葉を交わして、触れて、知る。菊乃もまた、自分よりも他人を優先するような人間だと。背中に庇われた時には眩暈がした。
ハルラックも、流石に神子に庇われた事は無い。
その菊乃の性質は、彼女の身を危険に晒し続けることになる。現に、もう何度も菊乃は力を使い、死に掛けていた。
言って聞くようなら良い。
だが彼女は、きっと自分の命など簡単に差し出してしまう。その事が歯がゆかった。今は義務感だけではなく、単純に彼女に生きていて欲しいと思うから余計にだ。
「ルーミケラウスさん達は、どうして私の力が必要なんでしょう」
じいさんから力を使えば死ぬと言われたにも関わらず、菊乃は平然としている。どころか、そんな質問をした。
黒目がちの大きな瞳の先には、渋い顔の伊吹がいる。
「……俺の兄の為だ」
「お兄さん?」
「吹雪という。……運がない事に敵対者に寄生されているから。言っておくが命を捨ててまで助けるような価値のある人間ではないからな。気にするな」
斬り捨てるような物言いに、菊乃は戸惑うように目を見開いた。
気にするなと言うくらいならば、最初から言ってくれるな。
物思いに沈むような菊乃の表情に、ハルラックは顔を顰める。近い将来、彼女が見知らぬ不幸な異世界人を助ける為に、あっさり命を落とす場面が訪れるに違いなかった。
なんとしてでも、阻止する必要がある。
「キクノ」
そこで彼女の名を呼んだのは、ハルラックではない。銀の髪に、褐色の肌を持つ青の血族の男。夜明け前の空のような、冴え冴えとした紫色の瞳を菊乃に向けて、ハイネスは告げる。
「俺に生きろと言った以上、お前には生きる義務がある」
「え」
「容易くその身を危険に晒すような真似はするな」
淡々と話す男の顔を、菊乃は戸惑ったような顔で見上げた。心配していると、一言いえば済むというのに、何故そんな難解な言葉になるのか。ハルラックには分からない。
「でも、ルーミケラウスさんが、その」
「関係ない」
周囲に漂う疑惑まで斬り捨てるかのようにすっぱりと、ハイネスは言った。
嘘ではないと思う。
ハイネスの冬の水のように冷たそうな瞳の奥が、菊乃を見る時だけほんの少し温まるのに、ハルラックは気が付いていた。
最も。
肝心の本人がそれに気が付く日は遠そうだと、困惑気味の菊乃を見てハルラックは思った。




