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菊乃の理由 1

 どうして。


 悲痛な声が菊乃の耳に残っていた。「どうして呼んだの」大粒の涙を流しながら、志真は菊乃を責めていた。

 どうしてって。

 それはこっちが聞きたい。どうしていつも、微妙な結果になってしまうのだろう。助けているつもりで、その相手に責められるのは。

(相手が本当に望んでいる事を、理解できていないから)

 それでも放っておく事はできなかった。ハイネスを黙って死なせてしまう事も、志真を行方不明のままにしておく事もできない。だから、苦い気持ちは残っても、後悔はしなかった。でも、気になる。

 志真はどこに行っていたのだろう。

 記憶に混乱と欠落がある為、真相は分からないとされているけど、本当にそうなんだろうか。菊乃には、そうは思えない。志真はきっと覚えている。それを言えない、言いたくない理由があるのだろうから、菊乃も知らぬ振りを通さなければならない。



「っ!」


 ひゅ、と冷たい風が顔にぶつかる。目の前で止められた剣先に息を飲む。ひやりとした汗が背中を伝い落ちていった。

「訓練中に気を抜くな」

 剣を戻しながら、抑揚の無い声音で言う。腰元に下げられた鞘に、完全に剣を収めると同時に、菊乃を見つめていた紫色の瞳から、冷ややかな厳しさが霧散する。

「そんな調子では怪我をする。今日はここまでだ」

 どこか心配そうにも見えてしまうその目には、今も少し慣れない。

「すみません。ありがとうございました」

 小さく頭を下げて、菊乃も短剣を丁寧にしまう。一応ちゃんと鞘もついているのだ。よく切れそうな刃を出しっぱなしにしておくのは心臓に悪いし、持ち運ぶときも不安なので助かっている。

 ようやく短剣が手に馴染んだ頃、実戦式の訓練相手としてハイネス・ユーゴが現れた時には驚いた。何だか単なる体力をつけるためのトレーニングというより、本格的な戦闘訓練をさせられているような。

 ハイネスの指示は的確で、分かりやすかった。

 しかし、普通の勉強等とは違って、いくら頭で理解していても、体がついていかなかったら意味は無い。その為、あまり捗っているとは言いがたい状況がある。


「増えている」


 微かに苦さを含むようなハイネスの声に顔を上げる。彼の見ている方へと目を向けると、言葉の意味が理解できた。

 菊乃達が訓練に使っているここは、保護施設内にある公園みたいなの一角だ。茶色いブロックを敷き詰めた広いスペースで、隅には水飲み場や日よけ付きベンチ等が設置されている。

 長方形のその敷地は周囲から2メートルほど低くなっており、周りはなだらかに下る芝生がで囲んでいた。丁度そこに座ってスポーツ観戦できるような形だ。

 一番近い芝生の中央部分が、菊乃とハイネスが訓練している時のハルラックの定位置で、時々その隣に遊びに来たじいさんが加わる。今日は更にもう1人。

 細身で色白、やや目付きの悪い青年。

 各務伊吹だ。


 どこか物憂げな表情で立っているハルラックの隣で、じいさんが芝生に身を沈めるようにして寝入っている。癖なのか、両手を胸の上で組んでいるその姿、何だか不安になってくるような。

 そこから、1人分くらいの隙間を空けて、伊吹は座っていた。

 芝生まで歩いていくと、軽く手を上げて挨拶された。

「どうも」

「こんにちは」

「坂巻さん、軍にでも入るつもりなのか?」

 伊吹の言葉に菊乃は小さく首を横に振った。

「いえ。最初は単に、体力をつけろと言われて」

 それが何故こんな事になっているのかは、菊乃にも分からない。伊吹はそんな菊乃を見上げて微かに笑った。

「まぁ、こんな世界だし、力をつけておくのは悪くない。時間は良いか?少し話したい」

 この訓練以外には、特に予定もない。頷くと、隣へ座るように促された。断る理由も無いので、その通りにする。

 伊吹が誘拐された先から無事に戻って、まだ4日しか経っていない。

 やつれてはいたが、案外元気そうだ。戻ってからずっと、ほぼ毎日取り調べが続いていて、未だ嫌疑が完全には晴れていないから監視中の身らしい。

「大変ですね」

「まぁ」

 一瞬だけ遠い目をして、伊吹は菊乃を見た。どこか、複雑そうな目で。

「多分、坂巻さんよりはマシだと思う。手の負えない事に巻き込まれた一般人の苦悩、みたいなものはあるけど」

 どういう意味だろう。

「坂巻さんと、そこのハイネスさん?に言っておかなくちゃいけない事がありまして」

 さも気が乗らなさそうな風に、伊吹は口を開いた。日本語から、こちらの言葉に切り替えたのは、ハイネスにも伝える為なのだろう。

「伝言。借りがあるので、伝えておきます」

 伊吹の隣に座った菊乃と、立ったままのハイネスはその言葉に一瞬顔を見合わせた。まるで見当が付かない。


「ルーミケラウスさんは生きています」


 え。


 生きている?誰が、ルーミケラウス、が?


 呆然とした菊乃は、遠くからの「テメェー!イブキ、そりゃあそいつらには伝えるなって言われてただろーが!」という怒鳴り声でようやく我に返った。

「会ったのか?」

 妙に冷静にハイネスが訊ねる。

「はい。間違いなく本人でしたよ。それも大分元気そうで……」

 それは一体どういう事なんだろう。あの時、確かにルーミケラウスは死に掛けていたのに。


「人の事無視してフツーに話進めんな、このタコ!」


 怒鳴り声が近づいたかと思ったら遠くなる。

 斜面を滑り降りたのは良いが、勢いが付き過ぎて途中で止まれなかったらしい。一度下までたどり着いてから向きを変え、猛ダッシュしてきた赤毛の男が、伊吹の頭に拳骨を振り下ろす。ごつ、とかなり痛そうな音がした。

 耐えるように俯いてから、伊吹は男を睨んだ。

「……っ、監視員の暴力事件として訴えますよ」

「うるせーよ、理由があれば不問だからな、なめんなよ」

 この会話から察するに、どうやら彼が伊吹の監視役らしい。

「ジェス」

「……んだよ、ハイネス」

 更に2人は知り合いらしい。ただし、相手の剣呑な目付きを見る限り、余り良好な仲では無さそうだ。

「どういう意味か、説明しろ」

「馬鹿言うな。テメーは晴れてケラスに戻れた身って言っても、完全に容疑が晴れたわけじゃねぇんだぜ?そんな人生甘くねーんだよ」

 けっと、顎を突き出すつんつんした赤毛の男。背が高く、筋肉質で、彫の深い強面。剃っているのか眉毛が半分くらいしかない上三白眼。言っては悪いが、かなりチンピラっぽい風体だ。

 そんな彼に、ハイネスは見ているだけで凍りつきそうな冷ややかな視線を送る。


「………エニシア・フィリ・ジェニスン」


 低い感情の篭らない声で一言。

 それがどんな呪文なのか(多分人の名前だと思う)分からないが、効き目は抜群であった。ジェスの顔色が、赤から青へと、信号機のように変化する。

「な、テメー、何で……」

「ジャンナからだ。証拠物もあるとか。手紙に」

「それ以上言うなー!ふざけんなよ、何で……あのくそ女っ、ばれたら身の破滅だぞ!」

 歯軋りし、髪の毛を掻き毟った後、ジェスはその場に座り込んだ。更に両手で耳を押さえる。

「………俺は何にも聞いていねー」

 凶暴そうな外見に似合わず、情けない格好を取る彼を見下ろし、伊吹は目を細めた。

「エニシア・フィリ・ジェニスンか、覚えておこう」

 もう彼の先行きには、不幸しか見えない気がして、何となく可哀想になってしまった。

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