伊吹、約束する 4
ミルラはいつも伊吹の想像しない事を仕出かす。
その時もそうだった。
油断していたのは伊吹だけではなかった筈だ。病人で、眠っている(と思っていた)ミルラに注意なんて払っていなかった。伊吹も、七海も。
「え!?」
話をしている最中に、突然ベッドから飛び出してきた彼女に驚いて、反応するのが遅れた。勇ましくベッドから飛び降りた彼女は、そのまま猫のように七海へと渾身の体当たりを食らわす。多分、途中で足が滑って体勢を崩したのが功を成した。
唖然とする伊吹の目の前で、ミルラと七海は床へと倒れこむ。その際、衝撃で七海の指から小瓶が離れるが見えた。宙へと投げ出されたそれは、すぐに重力に従って落下を始める。
咄嗟に動けた事は奇跡だった。
思い切り手を伸ばしながら、飛び出す。指の先が小瓶にぶつかって撥ね上がる、軌道を変えたそれに肝を冷やしたが、何とかつかむ事ができた。ほっとするのも束の間の事で、直後勢いのついたまま硬い壁に激突した。
痛い。
これは絶対に内出血を起こした。
ああしかし、痛みに呻いている暇は無い。
「ミルラ、そのまま動くな!」
上半身を持ち上げかけていたミルラは、はっとした様子で七海の腹の辺りに再び頭を戻す。伊吹も起き上がろうと手を着く七海の肩を押さえた。その拍子に、床に戻された頭の辺からかなり痛そうな音がしたが、無視だ。
「ちょ、痛……」
更に掌で七海の口を塞いで押さえる。
魔法とか使われたら厄介だ。そうやって2人がかりで押さえ込み、まずは口と両手を着ていたシャツと、ベルト代わりの革紐で縛る。それからは余裕を持って、クローゼットの中を漁り、使えそうなものでとにかく上半身をぐるぐるに巻いてやった。
ついでに自分の着替えも済ませる。
「むー、うー、ううー」
蓑虫のような姿で床に転がる七海を見下ろし、伊吹は会心の笑みを浮かべる。
「良い格好だな」
「えうー」
何やらもごもご言っているが、今は構っている暇は無い。
「ミルラさん」
壁にぐったりともたれているミルラへ声を掛ける。無理をしたせいで、具合が悪くなったのだろう。赤い顔でぜいぜいと苦しそうに息をしている。
「無茶するからですよ。全く……。上手く行ったから良いですけど、下手をしたら薬が無くなっていましたよ」
その事を考えるとぞっとする。
「それでも、良いと思ったんですわ」
「は?」
「わたくしの、せいで、イブキが悪事に手を染めることも、意に沿わないことを、するのも嫌……、絶対、駄目ですわ」
伊吹ははっと目を見開いた。
そんな事の為に?自分が死ぬかもしれないというのに。
潤んだ青い瞳でこちらを見上げるミルラへと手を伸ばし、
「この馬鹿!」
その頭を叩いた。
これが病人ではなかったら、拳骨を食らわしていたところだ。
「な、何するんですの!」
「言っても分からない奴には、鉄拳制裁。貴方は馬鹿か。そんな事の為に、簡単に命を賭けるな!」
「な!馬鹿って酷いですわ!」
「酷くない、本当の事だからな」
悪事だろうが、意に沿わぬことだろうが、それが必要ならばするだけだ。誰かの助けや良心など待っているだけ無駄だ。
守れるのは、頼れるのは自分だけ。
手段を選べるほどの力も知恵も無い。卑怯だろうと、臆病だろうと、醜悪だろうと。
(だから)
誰かに命を賭けてもらう資格があるような、そんな男ではない。誰かに惜しんでもらえるような価値は無いのだ。
「そんな事で貴方が死ぬくらいなら、一生悪事でも働かされていた方がマシだ」
苦々しく呟いて、伊吹はミルラの手を掴んだ。何故か金魚のように真っ赤な顔で口をパクパクしているミルラを引き起こす。掴んだ手は酷く熱く、足元がふらついていた。
無理ができるような状態ではないが、いつまでもこんな所でのんびりしているわけにもいかない。薬を飲めば種を排除することはできる。すぐに症状が良くなる事は無いが、先に薬だけは飲ませておいたほうが良いだろうか。
伊吹は手にしていた小瓶を、ミルラの手に渡した。
「今の内に飲んでおいてください」
「はい。……全部でしょうか?」
「んー!うー!ぬー!」
ミルラが小瓶の蓋を開けようとした途端、七海が大げさに騒ぎ始めた。
「ふー!むぅめー!」
無視することが憚れる煩さ、必死さである。何となく予感することもあって、伊吹は七海の口を塞いでいたシャツを、少しだけずらしてやった。
「それ、薬じゃないから!」
開口一番の台詞に、思わず眉間に皺が寄る。
「何だって?」
「だから、嘘なの。色が似てるから持ってきたけど、殺虫液だよ!飲んだら大変」
「……お前」
いや、待て。それこそが嘘だっていう可能性もあるのでは。だが、どちらか確かめることもできない以上、飲ませる事はできない。
「だってしょうがないよ、本物を持ってきて交渉なんて、危なくってできないよ普通。ズガンが鉄格子外したままで行っちゃったし、万が一割っちゃったりしちゃ元も子もないしね」
まぁ、確かに。
って思えるか!
「本物はどこにある?というか、本当にあるのか?」
「勿論。あたしの部屋にちゃんと保管してあるよ」
「案内」
伊吹は、七海を縛る時に取り上げた果物ナイフを彼女の首に突きつけた。他には何だか分からない丸い平たい二枚の軽い物体と、カードキーを2枚手に入れている。
「まー、まー、弟くん。ここは穏やかに行こうよ」
「そうして欲しかったらさっさとしろ」
「いや、これじゃ1人で立てないし」
手を後ろで拘束しての、腰の辺りまでシーツでぐるぐる巻いた状態を眺め、伊吹は考えた。
この状態にしてなお、油断はできない気がしていた。
彼女には散々騙されているだけに、警戒も沸いてしまう。上手く部屋まで案内してくれるかも、更に素直に薬を渡してくれるかも不明だ。
この際、人質にして、脱出した方が良いだろうか。
上手く外へ逃げることができれば、病院でちゃんとした治療を受けさせることができる。
ふらふらのミルラを抱えて、更にこの厄介そうな人質を連れて進むのは、非常に骨が折れそうだ。だが、この場所がどういうところなのかも、更にどれだけの人間がいるのかも分からないのに、2人だけで出て行くのは無謀に思えた。
伊吹は再び七海の口にシャツを巻き、紐をひっぱる形で起き上がらせた。足は縛っていないので、歩く事はできる筈。
「妙な事はするなよ」
ナイフを首元に近づけて言えば、七海は二度ほど頷いた。……どこか楽しげですらあるのが、一々気に障る。
「ミルラさん」
冷たい壁に顔を寄せていたミルラは、小さく頷いて顔を上げた。
「歩けますか?」
「大丈夫、ですわ」
気丈に言うが、足元が覚束ない。伊吹は左手を差し出した。
「掴まってください。体重かけても良いですから」
「ありがとう、イブキ」
ミルラは嬉しそうに微笑んで、その腕を取り額を預けるように身を寄せてきた。熱い体温が伊吹を不安にさせる。
本当なら、安静にしておかなければならない筈だ。
無理をさせて良いような状態ではない。
良いのか、本当に?
浮かんでくるこよりの面影が、伊吹の決意を鈍らせる。しかし、もう引き返せない。思い切って通路を進み、すぐさまぶつかる黒いドアに、手の空いているミルラがカードキーを滑らせる。
しゅ、と音を立てて横にスライドしたドアの向こうに、早速人影が見えた。
「あら」
ぎくりと強張る伊吹を見つけて、その人物は驚いたように目を丸くした。
「見つかっちゃった」
悪戯が見つかった子どものように笑う女に、伊吹は言葉も出ない。
ルーミケラウス。
死んだはずではなかったのか。




