伊吹、約束する 3
病人のたわごとなど聞いていられない。
というか、他に助ける方法は無いのだから、迷う事はないのだ。伊吹はミルラの言葉を無視して、七海に彼女を帰すことを約束させた。すぐにでも、と思ったが、「こっちも用意っていうものがあるし、そっちも少し話す時間がいるだろうから、また後で」と1時間ばかり時間を貰ってしまった。
廊下の壁に立てかけられた鉄格子のお陰で、随分風通しがよくなっている。
風なんて来ないが。
今ならば、他の場所を探りに行く事もできる。
ソファーに座ったまま、伊吹は小さく溜息を吐いた。病人のミルラを放って行く事はできないし、連れて行くこともできない。
ここに大人しく留まることを見透かされているようで、面白くなかった。
もう1つの頭の痛い理由。
ベッドへ顔を向けると、赤い顔をしたミルラが涙目でこちらを睨みつけていた。
「わたくし、てこでも動きませんわよ」
「通常の状態でも、あのズガンさんに貴方が敵うとは思えませんけどね」
「…っ、あ、暴れますわ」
「やめてください。只でさえ体力が落ちている時に、バカですか。あんまり世話を焼かせないでください」
そう言うと、ミルラの青い目が一層潤んだ。
罪悪感みたいなものを感じさせる、そういう表情は卑怯だ。だが、病人だからって甘い顔はしない。
「どうして。わたくしがイブキと一緒では無いと嫌だと押し通せば、もしかしたら、2人とも帰してくれたかもしれませんわ。本当に、わたくしを死なせる事が本意では無いと言うのなら」
「あいつらは、きっとそんなに甘くないですよ」
そこまでミルラの命を惜しんでくれるとは思えない。何を犠牲にしてもいいような、目的がある奴らだ。
「ミルラさんには、俺の人質というだけの価値しかないんです。だから今この逃げられない状態にある以上、死んでも、逃がしても大した痛手にはならない。だから、逃がしてくれる気になっている内に、逃げてくださいって言っているんです」
最初から、彼らの目的は伊吹なのだ。
(まぁ俺も、あくまで吹雪のおまけでしかないけどな)
ああ、でも吹雪に対しての人質というわけではないか。単に、彼の望を叶えているだけに過ぎない。
あの短気で短慮な兄は、義理人情に厚い男だ。気が合わないとはいえ、弟である伊吹を見捨てておくことはできない。だから、こんな事になっているわけで。
(めんどくさい奴……何にも分かってないって、それはこっちの台詞だ)
あの発言には本当にむかついた。今でも時々蘇ってはイラっとさせてくれるという、破壊力のある台詞だ。
「わたくし、怖いのですわ」
「大丈夫ですよ、無事に帰してもらえさえすれば、後は病院に行って……」
口にしてから、ふと不安が過ぎる。
本当にそうだろうか?
帰したといって、その辺りに捨て置かれていたところで、伊吹に確かめる術はない。ミルラは少しではあるが、こちらの事情を見知ってしまっている。
(まさか、口封じまではしないよな)
そこまで冷酷な奴らだとは思いたくないが、信じる事も難しい。
「違いますわ……イブキのことです」
新たな不安の種について、どうするべきか考えていた伊吹は、その言葉に顔を上げた。ベッドに寝たままの体勢で、ミルラは不安そうな顔でこちらを見上げている。
「ここの方達が何を考えているか、わたくしにはまるで分かりませんわ。だから、余計に不安になるのだと思いますわ。イブキに何かあったら、わたくし……」
その言葉に、心を突かれたような気分になったが、何でもないふりをした。
「変な心配していないで、無理せず寝ていてください」
「……いやですわ」
拗ねたような顔で言われる。多少幼くなっているのは、恐らく熱のせいだろう。微妙に舌が回っていないし、目もどこか虚ろだ。
「ちゃんと寝て、病気が治ったら、またどこかへ行きましょう」
そんな言葉が出たのは、恐らくこよりと重ねてしまった為だ。元気になったらすることを、いくつもいくつも約束した。
結局どれ1つとして、果たされなかった約束。
「本当に?」
何となく手が伸びた。
よしよしと頭を撫でてやると、ミルラのぼんやりとした目が瞬く。本当に子どものようだった。
「約束します。だから、良い子ですから、寝てください」
「こ、子ども扱いしないでほしいですわ、年は、わたくしの方が……」
最後の方になるにつれ、声が小さくなっていく。
熱の高さを知る為に、そっと額に手を置くとミルラは目を閉じた。
「……イブキの手、冷たくて気持ちが良いですわ……」
ほっと息を吐きながら、ミルラはふにゃりと微笑んだ。
どうやら眠ったらしいミルラを見下ろして、伊吹は渋い顔になる。
深く考えずに約束してしまったが、今のは何か。
『俺、ここから無事に戻れたら、婚約者とデートするんだ』的な、死亡フラグ台詞に通じるものがあったような。
何だろう、早速悪寒がする。
「意外に優しいんだね」
笑いを堪えるような声に、伊吹は伸ばしていた手を止めた。全く嫌なタイミングで表れる女だ。
ゆっくりと歩いて来た彼女は、部屋の前で足を止めた。
「用意は整ったのか?」
そうじゃなくって、と七海は小首を傾けた。
「さっきのね、ちょっとしたお芝居だよ。ズガンはああ見えて人情家だからさ、ちょっと煩いところあるんだ。だから、これは内緒ね」
七海がポケットから小さな小瓶のようなものを取り出す。中は、青紫色の液体で満たされていた。
「実はさー、あるんだ。除薬」
何だと。
信じられない言葉を聞いた。思わず目を剥く伊吹に対して、七海は悪びれず笑う。更に。
「どういう事だと思う?」
というふざけた質問までしてきた。
ズガンは知らない。除薬がここにある事すら、知らなかった。あの態度は芝居とも思えなかったし、七海がここで嘘をつく理由も無い。だとすれば、あらかじめ用意したのは、していたのは七海だろうか。ズガンにも知らせず?何故……。
「まさか」
最初から、知っていたのか。ミルラがストロノームになる事を。いや、もしかしたら。
「仕組んだのか?」
すべては偶然なんかではなくて。
植物園のガラスが割られていたのも、わざわざ危険植物の中にミルラがいた事も、更に伊吹も七海も同じ場所にいたのに、ミルラだけが運悪くストロノームになった事も?
七海の笑顔がそれを肯定している。
「お前」
怒りがかっと腹の底から燃え上がる。湧き上がった衝動のまま、無意識に足を踏み出していた彼を、七海が華奢な手を伸ばして押しとどめた。もう片方の手の指で持った小瓶を振ってみせながら。
「短気は損気ってね。イブキを説得する自信はなくてさ。だから、大分卑怯だけど人質を取らせてもらったんだよ」
「何が目的で」
「ちょっと攫いたい子がいるんだ。どうしても必要なんだけど、ガードが固くって。協力してくれないかな」
しないと、ミルラの命は無いって、悪どいにも程がある。
「それは脅迫って言うんだ」
最低最悪な。
しかし、伊吹には他に選択肢がない。見えない。
(畜生……)
伊吹は笑う七海を睨みつけた。
いつか絶対に後悔させてやる。




