菊乃の役割 2
町では既に、大勢の人間が緑の水溜り、寸道を捕らえる為に走り回っているらしいというのに。
(……行かなくて、良いのかな)
菊乃がそんな不安な気持ちになるのも無理はなかった。
リザレットから作戦に参加しているという証だという腕輪を貰い、動きやすい服装(短めのワンピースに七部丈のズボン)に着替えてまでしてやっていることといえば。
お茶である。
場所は保護施設近くにある喫茶店だ。白い壁のシンプルな建物で、黒茶の床板と一体になった長方形のテーブルが、規則正しく並んでいる。
テーブルの側面にある緑色のガラスみたいなものに手を触れると、艶やかに磨かれたテーブルの上にメニューが現れるという、近未来……異世界使用。客層はカップルが多く、家族連れや1人できている人がそれに混じっている。
耳の尖った人、毛むくじゃらの人、髪や目、肌の色も様々だ。
こうしてお店でゆっくりする経験は初めてで、非常に興味深いけれども。
作戦中、の筈。
こんな事していて良いのだろうか、という後ろめたさが勝っている。
保護施設を出た後「何をするにも腹ごしらえじゃ」と言って、真っ直ぐここへきたのはじいさんだった。リザレットからは、彼の指示に従い手助けするように、と言われている。つまり、菊乃達のリーダーは彼、じいさんなのだ。
そのリーダーはのんびりと、あわ立つ赤紫色の謎の飲み物を啜っている。美味いのう、とか言ってすっかりくつろぎモードだ。
「じいさん」
菊乃の隣で、浅く椅子に腰掛けて外の様子を見ていたハルラックが、腕を組みながらそんなじいさんを見下ろした。
「一応聞いておくけど、この場所はシマ救出の作戦に何か関係はあるのか?」
「いーや、特に無いのう」
やっぱり。
「……じいさん。少しは真面目にやれ。シマの安全が掛かっているんだろ」
「より良い結果を導き出すには、入念な準備が必要になるんじゃよ。もう手は打っておるから安心せい。ハル君もキクちゃんも、そうカリカリしとらんで、まずは気持ちを落ち着けるんじゃ」
ずず、っと飲み物を飲んでから、じいさんは髭を絞るように撫でた。手は打ってあるとの言葉に、少し安心できた。きっと、何か考えがあるのだろう。
「何より、あの子らには時間が必要じゃからのー」
「……誰の、何の事だ?」
ハルラックの問いに、とぼけるように再び飲み物をすするじいさん。
「茶が冷めるぞ、ハル君」
「……最初から冷めているから」
ハルラックの頼んだ飲み物は、クガルという葉を使ったアイスティーだ。
「相変わらず猫舌じゃのうー」
からかうようにじいさんが言う。その言葉に、菊乃はハルラックのもう1つの姿を思い出していた。黒い毛並みの豹のような、大きな動物。
不思議、だ。
もう菊乃は、隣にいる長身の青年と、あの大きな黒い動物が同じ存在だという事に、違和感を感じなくなってきていた。
しなやかな体付き、黒く艶やかな髪と毛並み、蜂蜜を溶かしたような瞳の色。
一致するところが多いとはいえ、菊乃の常識からすればそれは考えられないような事なのに。もう当然の事のような気がしている。当たり前、不思議とも思わない自分に、菊乃は微かな違和感を覚えた。
「キクちゃんも、ぼーっとしとらんでちゃんと食べるんじゃ」
「え」
どん、と目の前に置かれた皿に、菊乃は思わず目を丸くした。
山のように積まれた分厚いパンケーキが5枚、白磁に蔦模様の入った皿の上にどーんと鎮座している。たっぷり掛かった甘い香りのシロップと、溶けかかった薄桃色のクリーム。見ているだけでお腹がいっぱいになりそうな代物だ。
これは……。
呆然とする菊乃に対して、じいさんはふぉふぉふぉと笑う。
「女の子は甘いものが好きじゃろう。キクちゃんはどうも細すぎるからのう、遠慮なく食べて作戦に備えるんじゃぞ」
甘いものは確かに嫌いではない。しかしこの量は。
気がつけば、いつの間に注文したのか、テーブルの上には他にも料理が並んでいた。じいさんの前には、具沢山のスープと柔らかそうな白パン。ハルラックの前には、血の滴る分厚いステーキ(何の肉かは分からない)が3枚積み上げられていた。皿の隅に申し訳程度に付け合せの野菜が隠れている。
その表情を見るに、それもハルラックが注文したものでは無いようだ。
「ハル君といったら、肉じゃ。ここはわしの奢りじゃ、遠慮なく食べてくれい」
「……いただきます」
1枚途中で挫折する気がしてならなかったが、菊乃は大人しく食べ始めることにした。
トレーニングをするようになってからは、以前よりも食事を採れるようになった。しかし、いきなりこれは無理だ。
(そもそもこれは、1人分なのかな)
3、4人で分けて食べるものなんじゃないだろうか。フォークとナイフで小さく切り分けながら、口に運ぶ。外はさくっ、中はとろりと半熟でクリーミーな味わい。ホットケーキ的なものを想像していたが、どうやら違うようだ。思ったよりも重くない。
たっぷり掛かったシロップもしつこくないく、ほのかに苦味のある甘さであっさりしている。
これなら1枚くらいなら食べられそうだ。
隣を見れば、ハルラックは既に半分以上を食べ終えていた。慣れた仕草で肉を切り分け、ひょいひょい口に運んで咀嚼し、飲み込む。一連の流れるような動作には無駄がなく、綺麗だ。
見ているだけでお腹がいっぱいになりそうな食べっぷり。
「キクちゃんも、ハル君見習ってしっかり食べるのじゃぞ。キクちゃんには、頑張ってもらうからのー」
「は、はい」
志真を助ける為に、だろうか。
じいさんのその言葉に、ハルラックは鋭い視線を投げかけた。
「キクノに頑張ってもらうって、何をさせるつもりなんだ」
「おおう、ハル君。いっくらキクちゃんが可愛いからって、いたいけなじいさんをそんな怖い目で睨むのは良くないぞー」
「じいさん」
「そんな事言ってもしょうがないじゃろー。シマちゃんを呼び戻す基点となれるのは、キクちゃんしかおらんからのう」
「私、が?」
基点とは、どういう事だろう。
「シマちゃんを引っ張る時に必要なんじゃよ。シマちゃんに近い者、確かな繋がりを持つ者がのう」
確かな繋がり。
そんなもの、あるのだろうか。確かに親近感は持っているし、仲良くなりたいとも思っている。でも。
「この異世界で、同じ世界に生まれ育った者というのは、それは大きい、確かな繋がりじゃ。他の者には太刀打ちできん。イブキがおれば、そっちに頼めたかもしれんがのう」
伊吹も未だ見つかっていない。
「今はキクちゃんだけが頼りじゃ」
その言葉に、菊乃は小さく息を飲んだ。
(私だけが?)
責任重大過ぎるような。
「危険は無いんだろうな」
緊張する菊乃を横目に、ハルラックが確認する。
「どうかのう。そうそうある事でもなし、わしも初めての試みじゃ。理論上はうまく行くとおもうがのー」
「……他に方法は無いのか」
「あればいいんじゃがのう。無い以上は、キクちゃんに頑張ってもらうしかあるまい。何せシマちゃんの安全が掛かっておる」
どうかのキクちゃん、と問いかけられて、菊乃は小さく頷いた。
「頑張ります」
自分にしかできないのなら。志真を助けられるというなら、多少の危険は構わない。
(万が一、私が死んでも)
「無理はしないでくれ、キクノ」
心配そうな顔でハルラックが言う。
「悪いが、もしも危険だと判断したら、俺はお前を止める。例えそれで、シマが助からなくても、恨まれても」
自分を見つめる蜂蜜色の目の奥に、憂うような色を見つけて菊乃は瞬いた。
時々、ハルラックは菊乃にそんな目を向ける時がある。
悲しそうな、痛むような、苦しそうな、色。
「俺は、お前を守る事を優先する。それが、俺の」
償いで、使命だから。
その言葉を掻き消すように、大きな音楽が突如辺りに鳴り響いた。




