菊乃の役割 1
灰谷志真に起こったことを菊乃が知らされたのは、事が起きた翌日の事だ。
リザレットによって呼び出され、ハルラックと共に向った先には、見知らぬ老人の姿があった。3人が集まったところで、同調現象が起きた事から志真が消えてしまったことまで説明した後、リザレットは淡々と言った。
「その水溜りの捕獲及び志真の救出の手助けをするように」
熱が下がり回復した日の翌日から、菊乃の生活に変化があった。
殆ど部屋から出ないという半ヒキコモリ気味な生活のせいで、体力が落ち弱っているのだ。と、判断されたのかは分からないが、保護施設にあるトレーニングルームでの運動が、日々のカリキュラムとして課せられるようになった。
午前に2時間、午後に2時間。
菊乃に合わせて休憩を挟んでくれるものの、すっかり運動不足になっていた菊乃には厳しく、翌日はもれなく酷い筋肉痛に苦しめられる事になる。
柔軟体操にランニングに腕立て伏せ、腹筋。ダンベルのようなものを使った、筋力トレーニング。それに加え短剣を使っての護身術的なものの訓練。
勿論短剣は本物ではなく、切れないものを使っている。
最初は普通の剣やら、刀みたいなものやら、棒みたいなものやら色々持たされた。重すぎて振ることが精一杯というような菊乃の様子に、最終的に選ばれたのがこの短剣だ。
短剣、とはいえ、カッターナイフや工作用のナイフとは違う。
柄から刃先までの長さは25cmくらいあるし、結構重い。完全に武器といった感じのものだ。
これはやっぱり、自分の身は自分で守れ、という事だろうか。
振り返れば結構危険な目にあっているし、現在も伊吹は行方不明のまま。生まれ故郷の地球、日本より余程物騒そうなこの場所で生きていく為には、確かに必要な事かもしれない。
そう思い、何とか筋肉痛に耐えトレーニングをこなしていた。
しかし、トレーニングを始めてたったの4日目である。
溜まっているのは疲労と筋肉痛ばかり。体力も筋力も、一朝一夕でつくものではない。
そんな菊乃にまで協力を求めるとは、そんなに人手不足なのだろうか。それだけではない、他の思惑があったとしても、協力するのはやぶさかではない。
何せ、巻き込まれているのは志真なのだ。
(志真ちゃん、大丈夫なのかな)
無事である可能性が高いとは聞いていても、心配だ。無事でない可能性だって、勿論あるのだ。楽観はできない。
その後の聞き取り調査で、移動を続ける緑の水溜りみたいなものが、精霊の通り道と呼ばれるものの一部だという事が判明している。
通り抜けたものを別の場所へつれて行ってしまう、という。
現在は、同調現象により、一部だけ切り離されてしまったものが、本体に戻る為に暴走し転移を続けている状態だ。放っておいても(元の世界に戻る事はできないので)2、3日もすれば力は尽きる、が。問題は志真だ。
この世界のどこに行ったか分からない彼女を見つけ、連れ戻す為には、その水溜りが存在する内でなければならないらしい。
「……連れ戻す前に水溜りが消えてしまったら、どうなるのですか?」
菊乃の質問に対して、リザレットは細い目を更に細くした。
「見つけ出すのが困難になります。すぐに生死に関わる問題には発展する事は無いでしょうが、シマがこの国にいるとは限らない以上、厄介な事になる前に見つけるべきです。妙な輩に捕まらないとも限りません」
協力して戴けますね、と言われて菊乃は頷いた。
手続きをすると言ってリザレットが出て行くと、謎の老人がこちらへ顔を向けた。長い髪も顔の半ばまで垂れ下がった眉も、口元を覆い隠すようなふさふさした髭も、全部が白い。丹念に手入れされているのかさらさらストレートだ。
眉毛に見え隠れしている目は丸く、黒い。
ずるっと長い深緑のローブという格好とあわせると、仙人、または魔法使いといった感じの老人である。
沈黙の中、最初に口火を切ったのはその老人だった。
「さて、では自己紹介といこうかの。とはいえ、ハル坊とはくらすめいとじゃし、今更改めてする話も無いがのー」
それから顔中を皺皺にして笑う。(は、ハル坊?)思わずハルラックの顔を伺うと、微妙な顔をしていた。
(確かにハル坊は、無い)
背も高いし、肩幅もある。立派な青年に対して、坊というのはなんとも似合わない呼び方だ。
「ハル坊はやめてくれ、じいさん」
渋い顔での抗議に対して、老人はとぼける様に首を傾けた。
「ほうほう?それではハル君とかの方が良いかのー。ハル君、しっくりせんが、その内なれるじゃろう」
「……じいさん」
ハルラックはその渾名も気に入らなかったようだが、菊乃は内心で思っていた。(ハル君……か、何か可愛い)
「しかし鬱陶しい前髪切って随分おっとこ前になったもんじゃ、うん、その方が女人にもてるじゃろう」
ハルラックが蜂蜜色の瞳に呆れたような色を滲ませる。老人はひょいっと首を傾けるようにして、菊乃へと視線を移した。
「さてさて、そちらの可愛らしい娘さんはどちらさんかのう」
知り合いらしい2人のやり取りを見ていた菊乃は、慌てて頭を下げた。
「あ、私は菊乃…キクノ、サカマキです。よろしくお願いします」
「ははぁー、礼儀正しいのうキクちゃんは。わしはジーじゃ。皆からはお茶目にじいさんと呼ばれとる。キクちゃんも気軽にじいさんと呼んでくれい」
「は、はい。じいさん」
ふぉふぉふぉ、と笑う度に垂れ下がった白い眉や髭が揺れた。
何だか仙人みたいな容貌のジー。妙に和む雰囲気を持った人である。小柄な老人を見下ろして、ハルラックは小さな溜息を吐いた。
「じいさんがいるという事は、例のものはじいさんの世界から来たものなのか」
ほのぼのとした気分になっていた菊乃は、ハルラックの言葉にはっと気を引き締めた。
「その通りじゃー、ハル君は相変わらず鋭いのう」
じいさんは相変わらずほややんとしている。
「わしらは『寸道』とか、『ちょっとそこまで』とか呼んで、重宝しとったがのう。着点をしっかり決めてから入らんと、おかしなところに飛ばされてしまうんじゃ。そのせいで『迷い道』とも呼ばれていたのう」
「それは、こちらの意志で行き先を決められるという事なのか?」
「そういう事じゃのう。その人の一番行きたい場所へと導くが、果たしてシマはどこにたどり着いたんじゃろうなぁ」
行きたい場所。
そう言われてぱっと浮かぶのは、日本だ。二度と帰れないといわれた懐かしい故郷、誰よりも会いたい家族がいる場所。同じ立場の志真にとっても、そうではないだろうか。
そんな菊乃の思い付きを見抜いたかのように、じいさんは長いあごひげを撫でながら首を横に振った。
「残念じゃが、あれは異界にまでは届かんからのう。この世界のどこかにはいる筈なんじゃが」
志真の行きたい場所。
残念ながら、菊乃には見当もつかない。お互い分かり合えるほどの時間は経っていなかった。
何だか不安になってくる。
「……見つかりますか」
「大丈夫じゃ、キクちゃん。寸道を見つけさえできれば、こっちのもんじゃ。そっからシマちゃんを引き戻す方法はちゃんとある。わしと、キクちゃん、協力して頑張れば必ず良い結果が生まれるはずじゃ、どーんとな」
「……さりげなく、俺をいないことにしていないか」
半眼で口を挟んだハルラックに、じいさんは大げさに肩を竦めた。
「なんじゃ、ハル坊いつからいたんじゃ?」
「最初からだ。……全く、そういう呆けたフリで人をからかうのは悪い癖だぞ、じいさん」
何のことじゃか、とじいさんはとぼけて笑っている。緊張感を壊すようなやりとりに、菊乃は自然と肩の力を抜いていた。
(もしかして)
ふぉふぉふぉ、と力が抜けるような笑い方の老人をまじまじと見つめ、菊乃は思った。
(そういう、わざと……かな)




