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菊乃の後悔

 この世界に来て色々あったけれども、立て続けに起きた不幸な出来事は一旦収束して、現在は悪い夢でも見ていたのかなと思ってしまうほど、平和な日々が続いていた。もしかしたら、こっちが夢なのかもしれない。

 どちらかというと、そちらの方がありそうな話である。

 施設の人の態度もぐっと親切になったけれども、何となくまた余計な事をしてしまいそうな気がして、あんまり外出はしていない。時々、日が暮れてから施設内の庭を散歩するくらいだろうか。

 そんな引き篭もりがちの菊乃のところへは、毎日誰かしら来客があった。義務的に様子を見に来ているわけではなく、どうやら自主的に来ているらしい。

 大抵いきなり来ては、適当に喋って帰っていく。

 そんなわけで、部屋に引き篭もっている割には、色々な情報が入ってきていた。

 結果、ここのところの平穏さ加減につい気を緩めそうになっていたけれど、やはりそれではいけないなと思うようになった。


 各務伊吹が失踪したと聞いて。


 今のところ、誘拐、又は脅迫されて連れて行かれたという線を疑われているらしい。同時に彼にはお金持ちのお嬢さん誘拐の容疑も掛けられているとか。

 何だかややこしい話だった。

 その話を菊乃に教えてくれたのは、ジェレミーとジャンナだ。別々の時間にやってきた彼らの話は、少しづつ違うところもあったけれど、大筋は一緒だった。

 特にジェレミーから齎された情報が、菊乃の頭を悩ませる結果となっている。

 伊吹とお金持ちのお嬢さんを連れ去ったとみられている謎の女性。その人物である可能性が高いと言われているのが、


(七海・ルルルイエ)


 ………何か、どこかで聞いた事のある名前だ。


 忘れていたわけではない。特に思い出すこともなかったけれど、聞いてすぐ思い至ったくらいだ。ただ、その人を知っているとは言い出せなかった。同一人物だとの証拠は無い。それでもちょっと変わった名前だし、そんな偶然は無いような気がした。

 同じ人かもしれない。

 そう思ってなお言えないのは、彼女の言葉がひっかかっているからだ。


 嘘つきなこの国に騙されて利用されないように。


 そんな意味深なことを言っていた。

 彼女か、この国か。一体どちらを信じれば良いのか。未だ菊乃には判断がつかない。

 悩んでいる内に食事を疎かにしたのがいけなかったのか、体調を崩して熱を出してしまった。


「何をやっている」


 呆れたように見下ろされている。

 偶然にも、同じ事を思っていた。何をやっているんだろう。熱のせいで幻でも見ているのかとも思ったが、何度瞬きしてもそれは消えたりしなかった。

 無表情にベッドの菊乃を見下ろす、銀髪の青年、ハイネス・ユーゴ。

 目にかかる程伸びていた髪を切って、すっきりした印象になっていた。何だか若返ったようである。そういえば、幾つなんだろう。ぼんやりとそんな事を思っていると、不意に手を伸ばされた。

 熱を測ろうとしたのか、伸びてきた大きな掌は、菊乃の額に触れる前に止まり、引き返していった。


「……顔が赤い」


 嘆息しながらそんな事を言われた。

「どうして、いるの」

「………熱を出したと聞いた」

 答えになっているような、いないような。

 それとも熱のせいで頭が働いていないから、分からないのだろうか。

「何かあったのか」

 質問の意図が分からなくて、菊乃はハイネスを見返した。

「ここのところ、食欲がなかったらしいな」

 心配されているのかと、錯覚してしまうような静かな問いかけだった。そんな筈はないと思うのに。

 やはり夢なのかもしれない。

 そういえば、看病についていてくれているハルラックの姿が見当たらなかった。部屋に視線を彷徨わせると、ハイネスが言った。

「ハルラック・エジは氷と水を貰いに行った。直に戻る」

 僅かに眉を寄せて、ハイネスは一歩菊乃から距離を取った。

「戻れば、行く」

 やや不機嫌そうな声にはっとする。もしかして、彼はハルラックの代わりにここに呼ばれたのだろうか。1人にされても全然構わないのだが、ここのところ妙に過保護にされてしまっている。

 そのせいで、またハイネスに迷惑を掛けてしまった。

「ごめんなさい」

 謝罪など、何の足しにもならないだろう。その証拠に、一層空気が重くなった。


(何やっているんだろう)


 ここのところ、甘えていた自分を猛省する。落ち込んで、体調管理もろくにせず、挙句の果てには熱を出すなんて。自分の事ばかり考えていた。これではいけない。もっとしっかりしないと。


「これからはちゃんとして、ハイネスさんにも迷惑掛けないようにしますから……」


 から、の先は続かない。熱に浮かされるように、言わなくても良い事を言った。菊乃を見つめていたハイネスの冷ややかな紫の瞳が、僅かに見開かれる。

「……俺は、お前に迷惑を掛けられた覚えはない」

 逆だろうと言われて、菊乃は戸惑った。逆?

(どういう意味?)

 分からなくて、菊乃はじっとハイネスを見上げた。同じように戸惑っているようなハイネスが再び口を開こうとした時、邪魔が入った。

 軽いノックの音とと共に「僕です、入りますよキクノ」との声。この声は、ジェレミーのものだ。

 ドアが横にスライドするのと同時に、ジェレミーが室内へと入ってくる。その背後に、ハルラックの姿も見えた。

「熱を出して寝込んでいると聞いて、随分心配しましたよ。具合はどうですか?どうぞ、これお見舞いの花」

 そう言って差し出された切花は、既にまるっぽい形の花瓶におさまっている。オレンジ色の可愛らしいパンジーみたいな花と、黄色と白の小さな花。見ているだけで、元気が出てきそうな色合いである。ふわりと甘い香りが漂ってきた。

「ありがとうございます」

「この部屋は少々殺風景だと常々思っていたんですけどね。これからは毎日花を持ってきますから、楽しみにしていてくださいね」


 何か、『毎日』を強調されたような気がするのは、気のせいだろうか。


(暇なのかな……)

 ベッドの横の台に花瓶を置き、ジェレミーはふとハイネスを見た。にこりと笑う顔が怖い。

「おや、ハイネスさん。まだいたんですか」

 棘のある言い方にぎょっとする。そういえば、ジェレミーはハイネスのことをあまり良く思っていないようだった。あまり近づくなとも警告された気もする。

「ご苦労様でした」

「………」

 そんなジェレミーに対して、ハイネスも冷ややかな視線を返す。


「キクノ、新しい氷枕だ。交換するから少し頭を起こせるか?」

 そんな中、ハルラックは我関せずと菊乃の世話を焼く。何だかわけの分からない事になっている。

 頭の下の冷たさに反して、熱が上がりそうな予感がした。


「ジェレミーさん……」

「何かな、キクノ」

「伊吹さん、見つかりました?」


 一呼吸置いて、ジェレミーは苦笑した。

「まだだよ、キクノ。もしかして、熱の原因はそれなのかな」

 当たっているようで、違う。

「駄目ですよ。心配する気持ちは分かりますが、それで貴方が体調を崩すのは」

「違います」

 だから、そんな風に甘やかされるのは苦しい。もう、黙っている事はできなかった。優しくしてくれるのに、それを信じる事ができないのが苦しくて。

「私、ナナミさんという人に会ったことあります。ずっと、言えなくて」


 ごめんなさい。


 菊乃の謝罪に、ジェレミーは目を細めた。

「いつ、どこで?」

「教会の地下にいた時に。だから、顔は分かりません。私に逃げるように言ってくれた人がいて、その人が名乗ったんです。ナナミ・ルルルイエと」

 ようやく、言えた。

 しかし気持ちは晴れることはない。

 言っても言わなくても後悔する。

 伊吹を連れ去ったかもしれない人。しかしその人は、確かに菊乃を救ってくれた人だった。

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