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憂鬱な彼の胸の内 2

 お願い、お兄ちゃん。


 思えばその一言に弱かった。

 自分を兄とも呼ばず、呼び捨てで、それも年に1度呼ぶか呼ばないかだった生意気な弟に比べて、妹は可愛かった。明確な比較対象があった事と、彼女の体が弱かった事。自分が守らなくてはいけないという使命感は、深く吹雪に根付いていた。

 こいつは俺が守る!

 そんな風に思っていたが、実際戦う相手が悪かった。病気と闘うのは医者と、それから本人にしかできないことで、吹雪はそれを見ていることしかできない。苛める奴がいたらぶっとばしてやるし、困らせる奴がいるならば出ていって話をつけてやる。(解決方法はいつだって手荒なものにしかならないだろうが)

 けれど、代わりに病気と闘ってやることはできないのだ。


 他の家族と顔を合わせないようにして、何度も病院にいった。こよりは滅多に弱音を吐かなかったし、我侭も言わなかった。だからこそ、偶にでる可愛い我侭くらいは何でも叶えてやろうと、吹雪は思っていた。


 学校に行きたい


 それがこよりの最後の願いで、弟と決定的に決裂することになる切欠でもある。多分、吹雪のした事は愚かな事だったのだろう。その頃無菌室で治る見込みもない治療を続けていたこよりを、黙って外に連れ出すなんていうことは、決してしてはいけない事だということは、吹雪も、更に言えばこより自身もよく分かっていた事だ。

 これが、最後。

 そう2人とも思っていたからこそ、こよりは度が過ぎるくらいにはしゃいでいたし、吹雪は始終涙を堪えていなければならなかった。

 ずっと後悔しているし、今だって忘れていないのに、もしももう一度あの時に戻ったとしたら、自分は同じ事をすると確信していた。吹雪は彼女のお願いに弱いのだ。

 伊吹は永遠に吹雪の愚かさを許しはしないだろうし、吹雪自身も許してもらおう何て思っていない。

 いつか、自分が医者になってこよりの病気を治す。

 伊吹がそんな風に考えて、一生懸命に勉強していた事を吹雪は知っていた。妙に大人ぶって、素直ではなかった弟は、決して誰にもそんな事を告げなかったが、家族全員気がついていた筈だ。

 弱くて、捻くれていて、現実主義なあいつだけが、こよりの事を諦めなかった。

 医者から「覚悟しておいてください」と言われても、親がこよりの残り僅かな人生について考え始めた時も、こより自身が何とか受け止めようとしていた時も、伊吹だけは。


 恐らく、本当に強いというのはああいう馬鹿の事を言うのだろう。



「フブキ、フブキ……、大丈夫?」

 心配そうに自分を呼ぶ女の声に、吹雪は億劫な気持ちを抑えて目を開けた。ベッドに体を横たえて、額に右手を当てていた吹雪を、覗き込むように見下ろす二つの明るい茶色の瞳がある。

「聞こえてる?」

 目が合うと、確かめるように更に顔を近づけられた。ふわり、と肩の上までの長さのふわふわした亜麻色の髪が揺れる。

 その長さに切られたのは最近で、未だに少し見慣れない。

「……ナナミ」

 返事の代わりに名前を呼ぶと、女はほっと息を吐いた。

「良かった、アンタが部屋から出てこないって、子ども達が大騒ぎしてるよ」

「………」

 嫌そうな顔をする吹雪に、七海は笑いかけた。僅かに開いた口元から、小粒な白い歯が見える。吹雪は彼女を見るたびに、動物園で見た栗鼠を思い出す。特に前歯が大きいとか、そういうわけではないのだが。

 体も、顔の作りも全体的に小さく、ちょこまかと良く動くせいかもしれない。


「それにしても派手にやったね」


 呆れたような口調で、七海は部屋をきょろきょろと見渡した。窓も無い壁ばかりの部屋は、壁も床も天井まで、深く切り刻まれていた。当然敷いていたマットも、箪笥等の家具までぼろぼろになっている。

 辛うじて、ベッドだけが無事だった。

 刃物で切りつけられたような鋭い傷跡。それが、何も武器を持たない自分の手によるものである事は、信じ難い現実だった。

「……悪ぃな」

「良いよ、フブキが無事ならね」

 に、っと笑ってみせる七海の、何処までが本心かも分からないストレートな物言いには最早慣れた。

「新しい部屋用意するから、ちょっと待ってて」

「いらねぇよ」

「遠慮?」

「……別に、そういうわけじゃねぇ。どうせ同じ事になっちまうんなら、別にこのままで良いだろ」

「うーん」

 七海は腕を組んで苦笑した。

「フブキが良いなら良いけどね。あたしとしては、なるべくこうゆうことにならないよーに頑張ってほしいとこだよ」


 そうは言っても、吹雪だって自分の意志でやっているわけではない、と思う。

 腹の底から突然湧いて出て来る不快感。破壊衝動。怒りや憎悪、それに対する違和感は日に日に強くなっている。

 俺じゃない。

 何か別のものがこの体を支配している。もしかしたら、頭がおかしくなってきているのかもしれないと、吹雪は疑っていた。

 いつか、目が覚めた時に周囲に死体が転がっているんじゃないか、と。今はそればかりが怖かった。


「ごめんね。もうちょっと我慢して。きっと、あたしが何とかするから」


 笑顔を引っ込め、真摯な顔でそう告げる七海から、吹雪は目を反らす。彼女もまた、決して諦めない人間だ。


「それよりあいつの事はどうなってんだよ」

「弟くん、ねぇ」


 不肖の弟伊吹。

 彼を何とかこちらで保護してもらいたいのだが、七海はあまり気乗りしないようだった。

「監視きついし、当の本人からも音沙汰ないし。今のところ特に国に目を付けられるような部分だってないから、放っておいたほうが良いと思うけど。どっちかっていうと、ウチにきた方が危険なくらいだよ。それ、分かってるから向こうも無視してるんじゃないかな」

「……あいつは俺の弟だ」

 互いに気に入らない事実だが。

「俺がここにいる以上、どうやったって巻き込まれる」

「それはそうなんだけどね」

 うーん、と七海は首を捻る。珍しく、気乗りしない様子で。

「実はさぁ、ルーが言ってたんだ。イブキって子の性格を考えるに、こっちに来たら来たで、ウチの命取りになりかねないって」

「あぁ?」

「無理やり連れてきたところで、情報もって逃げた上、垂れ込みとか、そういう事しそうな感じだから気をつけた方が良いとかってね」


 まぁ、しそうである。


 想像して、思わず舌打ちする吹雪だった。

 それがイコール吹雪の死に繋がるとしても。(いや、だからこそか?)伊吹は躊躇わずにやるだろう。向こうは既に、吹雪の事など兄とは思っていないのだ。憎んでいる相手を庇う理由は無い。

 反論しない吹雪に対して、七海は感慨深げな顔をした。


「憎まれてるね、フブキ」

「………」


 そういう事は普通思っても口にしねーだろ!

 と、基本的に気遣いとは縁遠い人間である吹雪ですら思う。彼女といると、自分が常識的な人間に思えてくるから驚きだ。


「まぁ、一応フブキの気持ちが第一だから、どーしてもって言うなら、手はあるよ」


 小さな手を腰に当てて、七海は笑う。

 栗鼠っぽい外見には似合わない、悪どい笑みだ。

「但し、弟くんにもっと嫌われることになると思うけど」

「別に好かれたいとか気色悪い事は考えてねぇよ」

「じゃ、決まり」

 果たしてその選択は正しかったのか。

 どういう結果になろうとも、あの時程の後悔を背負う事はないだろう。もう、二度と。

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