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菊乃の褒賞 2

 青白い光に銀の髪がくすんで見えた。

 顔を向こうに向けているから分からないが、褐色の肌と髪色はハイネス・ユーゴと同じものだ。こうしてみても、何だか痩せた……薄くなったような気がする。

 早まっていた心臓が次第にゆっくりになっていく。

 落ち着こう、と菊乃は大きく深呼吸した。


 さて、一体どうしてこんな事になっているのか。「まずはハイネスに食事を採らせて欲しい」とか、そんな事を言っていたのに。正直気乗りはしなかった。菊乃に何が言えるだろう。何を言ったって、彼を不快な気持ちにさせるだけだ。

 それでも来たのは逃げられないと思ったから。

 だが、ユリウス達は何故菊乃にこんな事を頼むのだろう。彼らだって事情は知っている。ハイネスが菊乃の説得に応じるはずが無い事くらい、分かりそうなものなのに。

 憎むべき敵を使って、恨みを晴らさせてやろうとか、物騒な事しか思い浮かばない。罵倒も、暴力も覚悟して来たつもりだが、やっぱり怖かった。


 気分は猛獣の檻に投げ込まれた餌用の動物……、はっとした。


(もしかして、そういう事?)

 一瞬で血の気が引いた。

 ハルラックは彼を『青の血族』と呼んでいた。他者の命を吸い上げて生きる、とか。あの時は菊乃の呼んだ水で何とかなってしまったのだった。どういう理屈かは分からないが。また、水を呼べば良いのだろうか。それともそのまま餌代わり、なのだろうか。

(……前にもこんな事があったな)

 あの時はハルラックが一緒だった。ハイネスは酷い怪我をしていて、もしかしたら死んでしまうのではないかと気が気ではなかった。

 今は、

 こちらに背を向けて横たわるハイネスを、菊乃はじっと見つめた。

 先程からぴくりとも動かない。どんなにじっくり見たところで、生きているという証拠は見つからなかった。

(まさか、もう)

 胸を潰すような不安に押されて、ようやく声が出た。

「ハイネスさん?」

 その一瞬、菊乃は彼が助かるのなら、自分の命がなくなっても良いと確かに思った。


 呼びかけに対するハイネスの反応は速かった。

 電流でも流されたかのように跳ね起きながら、こちらへ顔を向けた。視線の先に驚きに固まる菊乃を見つけたハイネスは、一瞬目を見開いた後、忌々しげに目を細くする。

「何故お前がここに」

「ご、ごめんなさい……」

 不機嫌極まりない掠れた声には、謝らずにはいられない不穏な響きが滲みでていた。震える手を何とか押さえようと努力した。ぎゅっと唇を噛み締めて、覚悟を決める。

 何を言われても、何をされても文句は言えない立場だ。

「……俺に近づくな」

 低い声で言うと、ハイネスは慎重な動作で背中を壁につけた。肩膝を立てた姿勢で座ったまま、苛立ったように乱れた銀の髪をかきあげる。胸の辺りを押さえるようにシャツを掴む手が震えていた。良く見れば、額に脂汗のようなものが浮かんでいるのが見てとれる。

 酷く具合が悪いようだ。

 大丈夫ですか、そんな言葉が浮かんだが、今この状況で口にするには間抜けな言葉に思えた。どう見たって大丈夫ではない。


「何故、ここにいる」


 二度目の問いに、菊乃は少し躊躇ったが正直に答える。

「ハイネスさんが、もうずっと食事をしていないと聞きました」

「………」

「それで、何とかして欲しい、と」

 自分に何とかできるわけが無いと思っていた。どんなに考えてみても、ハイネスを説得できる言葉なんて思いつかない。そもそも憎むべき仇である自分に頼むのが間違っているのだ。人選が悪すぎる。

 暫くの沈黙の後、ハイネスは言った。

「出て行け」

 簡潔な言葉に、菊乃は首を横に振る。

 しかし、見つけてしまった。

「出て行きません」

 ハイネスを説得できなくても、彼の命を繋ぐ方法を。

 きっぱりと言った菊乃に、ハイネスの視線が更に厳しいものになる。それを、じっと見つめ返した。

「ハイネスさんが、食事を採るまでここにいます」

 もしも、それでもハイネスが食事を採らなかったとしても。その時は菊乃の命を与えられる、筈だ。多分、とその辺りは自信がない。ただ、酷い怪我を負ってきた時に襲い掛かってきたハイネス・ユーゴの姿を思い出すと、そういう事だろうなと思えるのだ。

 危機的状況において発揮される、生存本能。

 どうやって他者の命を奪うのかは分からない。水で贖えたくらいだから、接触だけでいけるのかもしれないし、普通にばりばりと食べられるのかもしれなかった。

 その辺りの事はあまり考えたくない。

 できればあまり痛くない方法でお願いしたいものだ。


「そう言えば、俺が従うとでも?」


 冷ややかな言葉が不思議だった。どういう意味だろう。

「俺はお前の命など惜しまない」

「知ってます」

 間髪いれずに頷くと、何故か眉根を寄せられた。

 怒っているような、苛立っているような顔だ。

 具合が悪いせいだろうか、いつもよりも表情豊かに見える。怒りと、苛立ちと、葛藤のようなものが代わる代わる顔に浮かんだ。

「知ってる」

 もう一度、今度は自分に言い聞かせるように。

 罪の償いの仕方など分からない。誰もその機会を与えてすらくれなかった。ルーミケラウスのことだけではない。シャーリン教会に出たという敵対者を消したのも、菊乃だとユリウスは言っていた。

 はっきりとした記憶も実感も無い、ただ直視できない結果だけが目の前にある。


 そうしなければ、もっと沢山の人が死んでいた。

 けれどその言葉は、犠牲にされた命に関わる人の前では、とても口にできないものだ。絶対に。

(どうして、私じゃなかったんだろう)

 恐れていた筈の未来を思う。いっその事、誰もが疑っていたように、自分が敵対者に寄生されていたなら。ハイネスは何も思うことなく菊乃を殺していただろう。彼らはすぐに彼女の死を忘れるだろうし、菊乃は無常な現実に憤りながら、ハイネスの優しさを知ることもなく、ジェレミーやユーイにただ怯えたまま、この世界に親しみや愛着を持たずに死んでいけたのに。

 今となっては、そちらの方がずっと楽だったと思うのだ。

 ハイネスに殺されても良い。

 そう思うのも、悔恨の気持ちからというよりは、その苦しさから逃れたいからというのが強かった。自分でも最低だと思う。


 でももう、ちょっと辛い。



「嘘だ」


 長い沈黙の後で、ぼそりと掠れた声が言った。顔を上げると、紫色の深い眼差しとぶつかった。相変わらず、人を射抜くような眼差しだ。

 嘘って、何が。

 言葉の意味を図りかねる菊乃に、ハイネスは目を細めた。


「俺に生きろというなら、お前も死ぬな」


 その言葉はどんな罵倒や暴言よりも、確かな威力を持って菊乃の心臓を貫いた。罪悪感や苦しさから逃げようとしていた自分を、あっさりと暴かれてしまったような気がした。


 1人だけ安易に死に逃げられると思うな、生きて苦しめ。


 そんな風に翻訳してしまうくらいに、今の菊乃の精神状態はまずかった。


 青褪める菊乃を一瞥して、ハイネスは怪訝に眉根を寄せた。今の言葉で、死にそうな顔をされる意味が分からない。

 飢餓状態で頭が働かないせいだろうか。

 分からないが、拒絶されたような気分になった。胸の奥に怒りとも、悲しみとも判別できない感情が浮かぶ。他人にそんな想いを抱いたのは初めてだ。

 何故彼女がここにいる。

 疑問の答えをハイネスは既に知っていた。


 自分が彼女だけは殺せないからだ。


 長く考えるまでもなく、どうするべきかの答えは出ていた。

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