志真と微妙な乙女心 1
朝。
宿屋であるとはいえ、現在は自分の自宅である筈なのに、何故こんなに気が休まらないのだろう。
ドアをほんの少しだけ開けて、廊下の様子を伺う。
よし、誰もいないな。
きちんと確かめてから素早く廊下に出た途端、斜め向いのドアも開いた。何このタイミング怖すぎる。
「おはようチーグーちゃん。今日も寝癖が鳥の巣のようで愛らしいよ!」
朝からきらきらした笑顔を惜しみなく振りまくクリス。最後に愛らしいとか付け加えれば何を言っても暴言にならないとでも思っているのか。断じてそんな事は無いからな。
でも朝の挨拶は大切なので、礼儀正しい(と自分では思っている)志真はきちんと愛想の無い挨拶を返した。
ちなみに、チーグーというのは魚の名前であった。
おい、と言いたい。
イルカとか可愛らしい海の生き物に例えられるならば良い。しかしチーグーは普通に魚。丸くて小さくて黄色い。小粒な目も、レースで出来たミニスカートみたいなヒレも可愛いといえば可愛いけど、魚だ。食用には向かないけど、観賞用として人気があるらしい。
全く嬉しくない。
魚差別をする気はないけど、見て可愛いのと例えられて嬉しいのは別である。乙女心は普通に傷ついた。人をチーグーちゃんなんて呼ぶ男に振りまく愛想など無い。例え客であってもだ。
(客、なんだよなー)
動機は兎も角、クリスはお金を払ってこの宿屋の一番良い部屋を利用してくれている。その話を聞いたミルラも「わたくしもちゃんと払います」と言って、宿泊費を払ってくれるようになった。
うちはお休みしているところだし、良いのよ、気を使わないで~とリアラは断ったみたいだけど、最終的には貰う事で話がついたようだ。
宿泊客がいるならお店の方も再開しないとね、という事になって。今日から宿屋、食堂共に営業再開である。
その辺の切欠を作ってくれた事は、志真もクリスに感謝していた。
「チーグーちゃん、また後で健気に働く君に会いにいくから待っていてくれたまえ」
そんな事を言わなければ、もっと愛想よくできるのだが。
「おはようございまーす!」
硬い生地の生成りのエプロンを身につけて、志真は調理場を覗いた。
「おう、おはよう」
「おはよう、シマ」
既に忙しく働いていたカオロン・ミーチェ夫妻がにこにこと明るく挨拶を返してくれた。ラクトは軽く首を振るのが挨拶みたいなものである。
「手伝い、ある?」
「ここは人出が足りてるから、掃除の方手伝ってやってくれるかい?久しぶりの営業だから、ぴかぴかにしておかないとねぇ。フィオーネ達が行っている筈だから、よろしく頼むよ」
「はーい」
志真は元気良く返事をして、向いの食堂へ続くドアを開けた。
ミーチェが言ったフィオーネ(達)は、アンナのことだと思っていたが、違ったようだ。真剣な顔でテーブルを拭く女性を見て、志真は驚いた。
「え、ミルラさん?」
動かしていた手を止めて、ミルラは顔を上げた。力を込めて拭いていたせいか、白い頬が赤く染まっている。今日は化粧をしていない上、長い金髪を三つ網にして両横に垂らしているせいで、余計に幼く見えた。
実年齢は24歳らしいけど、20を越えているようには見えない。
しかし、見れば見るほど伊吹にはもったいない美人だと思う。美女と野獣……、いや伊吹は野獣っていう感じではない。
美女とオタク……美女ともやしっ子とか?
「おはようございます、シマ」
「おはよう、ございますミルラさん」
挨拶をした後で、志真は疑問をぶつけて見た。
「ミルラさん、何やってるの?」
「何って……見ての通り、掃除ですわ」
うん、そうだね。しまった。言葉の選択を間違えた。どうして掃除してるのって、聞けば良かったのだ。
「掃除と、洗濯と、それからお料理は特に大切なものなのでしょう?」
その言葉に、志真は目を丸くした。
(わ、まさか私が言ったから本気で?)
昨晩、寝る前にミルラと話す機会があった。部屋が同じ階にあるから、偶然顔を合わせたのだ。彼女はちょっと難しい顔で、志真に聞いてきた。
「イブキと貴方は、同じ世界から来たんですわよね?」
「うん、そう」
「……あの、そちらの世界では、結婚した女性はどのような事をしますの?妻に求められる必須条件のようなものはありますの?」
詳細は違うかもしれないが、こんな感じのことを聞かれた。はっきり言って驚いた。この人は本気で伊吹と結婚するつもりなのだ!と。
婚約証明書まであるくらいなのだから、今更かもしれないけど。
それにしても、妻に求められるものとかって……、古いところで浮かぶのは大和撫子とかだろうか。今はもう絶滅したとか言われているけど、男にとっては理想的な感じがする。
でも大和撫子って具体的にどんな感じなんだ?
志真には最も縁遠い言葉だったため、説明する事はできそうになかった。なので。
「掃除と、洗濯?後、料理!これ大事。美味しい食事ね!」
男を落とすには胃袋から!
そう力説して料理部に入った友人がいた事を懐かしく思い出しながら、志真はミルラにそう答えたのだった。
(どうしよう、本気すぎる!)
間違った事は言っていないと思うけど、ここまで真剣に行動に移されると焦る。下手な事は言わないで本当に良かった。調子にのって「お帰りアナタ、ご飯にする?お風呂にする?それとも…」的なネタを教えなくて本当に良かった!
(まぁ、言葉が訳せなかっただけだけども)
そんなもの本気で実行されていたら、伊吹からどんな報復を受けるか。……ちょっとばかり、うろたえる伊吹を見たいとも思うが。
しかし、まだ言葉がちゃんと話せないことに感謝する日がくるとは。
「どうかしたんですの?」
「何もないよ!」
あはははは、と乾いた笑いを漏らす志真に、ミルラは首を傾げた。
「あ、シマ、おはよう。手伝いに来てくれたのね」
「フィオーネ!おはよう」
フィオーネは床にバケツを置き、脇に挟んでいたモップを二つ手にした。
「床は掃いたから、モップがけお願いできる?その後は窓を拭いて、できたら棚のグラスも全部磨いておきたいから……とにかく急いでやりましょう」
「うん!頑張る」
今日は学校も休みなので、時間もある。志真は張り切って掃除を開始した。
1時間ばかり掃除して、朝食を取る事になった。普通なら調理場に置いてあるテーブルで順次とっていくのだが、今日はまだ営業再開1日目という事もあって、全員で食堂に集まった。
全員……一応客である筈のミルラとクリスも混ざっている。
良いのか?と思うが、本人達が至極当然の顔をしているので、多分良いのだろう。というか、今更かもしれない。
騒がしいクリスとミルラに挟まれた伊吹の顔は、苦渋に満ちているけれども。
「イブキ、この奇妙に塩辛い薄い魚はなんだい?」
「魚の干物ですよ。何の魚かは知りませんので、他の人に聞いてください」
「い、イブキ……、喉に何か刺さりましたわ!」
「……魚の骨です。死にはしませんので、そこまで泣きそうな顔をするのはやめてください。パンでも飲み込めば取れますよ」
大変そうー、と志真は安全圏(クリスから隣に座ろうと言われて逃げた)から、伊吹の不幸を眺めていた。
しかし、クリスも変な人だ。婚約者を取った相手と普通に仲良くできるなんて。しかも、そのミルラは伊吹にべったりだ。
(変、なの……)
「い、イブキ…?」
「……また刺さったのか。もう良いです、ちょっと皿寄越してください。骨取りますから」
そう言うと、苛々した様子でミルラの魚の骨取りを始める伊吹。
(もうちょっと優しく言ってあげれば良いのに)
と、志真は見ていて思うのだが。
「イブキ、あの、ありがとうございます」
「別に貴方の為では……」
無愛想にそう言いかけて、伊吹は苦虫を潰したような顔になった。
どうしたんだろう?
すっかり2人に気を取られていた志真は、まるで気がついていなかった。
食事が進まない様子の少女にも、そんな彼女を面白そうに見る彼の視線にも。




