伊吹、引き返せなくなる 3
しかし、異世界に来て結婚について考える羽目になるとは。
恐らく向こうの世界にあのままいたなら、一生悩む事はなかっただろう。女友達どころか、同級生の女子ともろくに口をきかなかったくらいだ。一生独身。それで良いと思っていた。
それなのに、結婚とか。
結婚すれば、市民権を得られるうえ、絶対的な後ろ盾を得られるのだから、伊吹にとっても決して悪い話ではない。
(悪い話どころか……)
美人で金持ち(性格はちょっと癖があるものの気にならない範囲だ)が相手とか、恵まれすぎていて逆に怖い。絶対どこかに落とし穴が。更なる不幸か、或いは厄介ごとの前フリとしか思えなかった。
もしかしたらこの一連の出来事は仕組まれていて、自分は何かを試されているところなのだろうか。
何にせよ、ろくな事にはならない気がする。
逃げ道を塞ぐように用意された婚約証明書。
ミルラとの結婚が進められていたクリスティアン・ベルナ・ハーバーを納得させる為には、絶対に必要なものだと言って作成させられた。
後で詳細を調べたところ、どうも嵌められたような気がしてならない。書類に判を押す時は、きちんと詳細を確認してからにしましょう。どちらにしても、あの雰囲気の中で断る事は難しかった。
「まぁ、どうしても嫌だっていうんなら、破棄にしてくれても構わないからそう深刻にならんでも良い」
そう、ラクリエル商会のご隠居(裏ボス)ジョール・ラクリエルは笑っていたが。目は笑っていなかった。うちの可愛い孫娘のどこが不満なんじゃい、と腹の底で思っているに違いない。
別にミルラに不満があるわけではなかった。
しかし、結婚したいと思うほど好意を抱いているわけでもないのだ。大体知り合って2日しか経ってない相手と躊躇い無く結婚できる奴がいるか。……いるかもしれないが、少数派の筈。
こんな美人と結婚とかラッキーと思えるほど、伊吹は楽観的な人間ではない。
「いっさん、ちょっとあれどうにかなんないかな」
翌日、通勤途中の伊吹を追ってきたのは志真だった。いつもよりも幾分青い顔で、元気が無い。理由は分かっている。
ジョールが用意した婚約証明書によって、完璧にふられてしまったクリスティアン・ベルナ・ハーバーは、その後どういうわけか志真に言い寄っている為だ。
全くどういう趣味なんだ。
ミルラと志真にはまるで共通点が見つからない。性別、女っていうくらいだろうか。
「まぁ、無視しておけばその内に飽きるだろ」
「他人事だと思って!いっさんは良いよねー、あんな綺麗な人と婚約とか…………騙されてない?」
否定できない。
「クリスティアンだって顔とかは良い方だろ。貴族らしいし玉の輿じゃないか」
「女たらしで変態って辺りで帳消しだよ。大体、私あの人の事好きじゃないし」
他に好きな人いるし、という小声で囁かれた言葉は聞かなかった事にしてやった。相手はどうせあのモクとかいう異世界人だろうし、興味も無い。
思わず呟くという、柄にもない行動に照れたのか、志真は誤魔化すように大きな声で言った。
「大体さ、クリスだって私の事本当に好きってわけじゃないと思うんだよね」
「ほう」
「出会って良くわかんない内にさ、しかも追ってきた婚約者に振られた直後に告白って、やっぱりちょっと無理があるよ」
意外とちゃんと考えているらしい。
「何か他に考えてる事があると思うんだけど」
「だろうな」
多分、ミルラ絡みのことで。
あっさりと肯定すると、志真は驚いたような顔をした。
「心配じゃない?」
「何が」
「だって、ミルラさん置いて来てるし。クリスも暫くいるって、取り合えず2週間分前払いで宿代貰っちゃったらしいよ」
しかも一等部屋である。金持ちめ。
「良いカモが入ってよかったじゃないか」
「それは良いんだけど、そーじゃなくってさ!」
「ミルラに何かするんじゃないかっていう心配なら、するだけ無駄だぞ」
少なくとも、今日のところは。
「え、何で?」
心底不思議そうな顔をする志真には言うつもりは無いが、クリスティアン・ベルナ・ハーバーはさっきからずっと、自分たちの後方でうろうろしているからだ。
尾行しているにしては、堂々と姿を見せている。時折、物陰に隠れているようだがあんまり意味が無いような。あの無駄に立派な体格と、派手な服装は人の群れの中にあっても目立っていた。
さて、奴の目当ては一体どちらなのか。
イグローブス乗り場で志真と別れた後、その派手な男の姿がイグローブスに乗り込んでいたのを確認した伊吹は、非常にがっかりした気持ちになっていた。婚約者を奪われた男が、奪った(誤解だと主張しておきたい)男にどんな用があるのか。
不穏な用しか思い浮かばない。
クリスティアンは少々暑苦しい感じではあるが、彫の深いイケメンであった。身長も高くマッチョで、好みはあるだろうが女性に受けそうなツボは持っている。性格に難ありとは言っても、本人に自覚は無いだろうし。
(そりゃ、納得はいかないだろうな)
貧相で貧弱な異世界人相手では。
暴力に訴えられればまず勝てない。いざという時は、遠くから護衛してくれている筈の護衛が駆けつけてくれるだろう。
しかし出来れば遠慮したい。
痛いのは嫌いだ。
暴力も。
イグローブスを下りて、いつもの道のりを歩く。頭の上で、後ろを向いて威嚇しているこてつに、敢えて気がつかないふりをしつつ。
保護施設まであと半分の辺りで声がかかった。
「イブキ・カガミ。少し、私のために時間をとってもらえませんか」
と、クリスティアン・ベルナ・ハーバー。
以外に紳士的に声を掛けてくれたので、幾分気が楽になった。職場には遅れると一報を入れ、近くの店に入る。所謂喫茶店で、数種類のお茶や珈琲、ジュース等の飲み物と菓子、軽食なんかを出している洒落た店だ。
動物連れOKの店なので、偶に利用している。
この時間に来た事は無かったが、何気にカップルが多い。そんな中、2人がけの席に、小さなテーブルを挟んで男と向かい合って座るのは、聊か抵抗があったが致し方ない。
「で、話というのは」
それぞれ注文した飲み物とケーキ(これはクリスティアンのみ)が届いたところで、伊吹はそう切り出した。クリスティアンは優雅な動作で、繊細な形のカップに口を付けた。
「ミルラ嬢と別れてくれないか。………とは、言わないので安心してくれたまえ」
はっはっはっは。
怪訝に眉を寄せる伊吹に対して、クリスティアンは高らかに笑う。止めろ。周囲の視線がこちらに集まっているじゃないか。
伊吹と嫌そうな顔を、どう受け取ったのか彼はおかしそうに言う。
「そう心配することはないよイブキ。私は常に前だけを見る男だ。過去の事は振り返らない、美しいミルラ嬢の事は残念だが……嬉しい事に世に魅力的な女性は多い」
「過去というか、つい昨日の事ですが」
切り替え早すぎるだろう。
白い歯を見せながら、にこやかに辺りを見渡すクリスティアン。やめろ。周囲の女性は大部分が男連れなのだ。
多分その辺りがミルラに嫌われる要因と見た。男にも嫌われそうであるが。
「とはいえ、私にとって、妖精のようなミルラ嬢との結婚はとても魅力的なことではあったのだ。彼女が妻になるという事もそうだが、何よりあのジョール・ラクリエルに認められ、彼の家族となる事は大変名誉な事だからね」
「はぁ」
ここは謝るべきなのだろうか。
「昨日は本当に驚いたんだ。あの婚約証明書……、あれにジョールの名前があるって事は、君は彼に認められたという事になる」
男に熱く見つめられたところで、少しも嬉しくは無いものだと、伊吹は知った。
「つまり君は、いずれラクリエル商会の重役になるかもしれない男だという事だ。今の内に、親交を深めておくのも悪くないと思ってね」
爽やかに、暑苦しい笑顔を浮かべるクリスティアン。
言動のおかしさの割りに、中々抜け目の無い男のようだ。




