伊吹、引き返せなくなる 2
忘れもしない中学1年生の頃の思い出。
クラスでも人気だった、ちょっと可愛くて明るい少女。自分とは縁の無い彼女がある日話かけてきた。
「伊吹くん、あのさ今日の宿題やってきた?算数のやつ」
目の前ではにかむ可愛い少女。同じ教室で過ごしながら、全く話した事もない相手。いきなりのことにどぎまぎしながらも、伊吹は頷いた。当然やってきていたからだ。嘘をつく理由は無い。
「凄い!私馬鹿だから難しくて、でも伊吹くん頭良いしやってるかもって思って。思い切って聞いてみて良かったぁ。あの、写させてくれない?良かったら……、だけど」
そこで何故嫌だと言えなかった過去の自分。
言えなかったためにそれ以降、何だかんだ言われて宿題を写させてやる羽目になったのだ。まぁ、それだけならばまだ良かった。
更にそれから半月後。
「伊吹てさぁ、カナのこと好きなんじゃねぇー?」
廊下が赤く染まっていた夕暮れ。
忘れ物を取りに教室に戻った時の事だった。女子の数人がまだ残っていて、話をしていた。話題はまさかの自分のこと。入るに入れない。咄嗟に姿を隠してしまった。
「えー」
「私もそう思うー。ね、もし告白されたらどうする?付き合う?」
「無いよー。伊吹くんって頭良いけど暗いし、ちょっと気持ち悪くない?」
「うっわ、いっつも宿題見せてもらってる癖にその言い草。アンタ鬼だねぇ」
楽しげな笑い声を聞きながら、腹の底から嫌悪と怒りが湧いてきたのを今でも覚えている。というか、今思い出しても腹の立つ。
帰ろうと思いかけて踏み止まった。
逃げるみたいで悔しかったのだ。勢いつけてドアを開くと、ぱっとこちらを振り返った少女達が気まずそうに口を閉ざした。気まずい沈黙の中、伊吹は黙って自分の机に向った。机のフックに掛けられた縦笛。
それがその日忘れたものだった。
無事手にして教室を出ようとした時だ。
「盗み聞きなんて、サイテー」
決して大きな声ではなかったが、静まり帰った教室でそれはよく響いた。その声は、いつも伊吹に宿題を見せてと強請ってきていた『カナ』のもので。
その後切れた自分が縦笛を思い切りカナに投げつけたとしても、仕方が無かったと今でも思う。例えその後、その件が「縦笛殴打事件」として歪められて伝わり、卒業までクラスの女子から無視される羽目になったとしてもだ。
後悔はしていない。
後悔するのは最初に彼女の本性を見抜けず、淡い恋心っぽいものを抱いてしまった事である。人生最大の汚点だ。
流石に利用されているのは分かっていた。それでもまぁ彼女が喜ぶなら良いとか温いお花畑思考を思い出すと、わけもなく叫んで倒れたくなる。忘れよう。覚えている価値も無い思い出だ。
そして、今目の前にいるミルラの妹からは、彼女と同じような匂いを感じた。自分の容姿が優れていることを自覚し、目の前の男に影響を与えられると信じている。
自分が一言お願いすれば、伊吹程度の男ならば馬鹿みたいに言いなりになると思っているのだ。伊吹には分かる。現に今、断った伊吹に対して驚いたような、不快感を抱いたような顔をしていた。それは一瞬で綺麗に隠されたが、見逃さなかった。
「お姉さまには取ってあげたのに、わたくしには取ってくださらないんですの?」
傷ついたような顔で、悲しげな上目遣いを向けるエリー。
中々の演技派だ。
しかし、どうして執拗に伊吹に果物を取らせようとするのだろう。
これに何か意味があるのか。何かの罠か。もしかして、実をもいだ途端泥棒とか叫ばれて屋敷の者に掴まるとかそういうイベントが用意されているのだろうか。
いや、待て。
伊吹は先程果物を渡した時の、ミルラの不可解な反応を思い出した。それ自体に何かあるのだろうか。
様々なことに考えを巡らせていた伊吹は、手を打つような乾いた音に我に返った。
パンパンパン、と乾いた音が高らかに響く。
音のする方から、背の高いがっしりした体格の老人が現れた。軍人のようないかつい顔に白い口ひげ。左目に眼帯。黒地に金と銀と朱の刺繍の入った羽織を身につけた、いかにも只ならぬ雰囲気を持った男だ。
そんな男がしかめっ面で拍手をしているのがまた怖い。(何の拍手だ)
その彼を。
「お爺様!」
とミルラとエリーが呼んだ時、伊吹は眩暈がした。マジか。多少の覚悟はしてきたつもりだったが、ヤクザというか海賊というか、流石にそういうのが出て来るとは思わなかった。(貴族の端くれじゃなかったのか)
ギロリ、という擬音が相応しい視線を向けられる。それだけで寿命が何年か縮みそうだ。
挨拶しなければ、と口を開いた伊吹だったが、少しばかり遅かった。
「お主、なかなかやりおるのう」
にやりと笑う姿は悪徳商人にしか見えない。越後屋、そちも悪じゃのうみたいな台詞を言われては、尚更だ。
しかし何の事なのかさっぱり分からない。反応のしようが無いので、伊吹はとりあえず曖昧に笑った。
「お騒がせしまして、申し訳ありません。私はイブキ・ガガミと申しまして、ご存知でしょうが異世界の人間です。未だこちらの常識に通じていないところが多々ありまして、本意では無いですが不愉快な事を仕出かしてしまうかもしれません。お許しください」
「構わん構わん。というか、迷惑を掛けておるのはどちらかというと、家の孫娘のほうじゃろう」
おお、ばれているし。
祖父に見られて、ミルラは小さく肩を竦めた。エリーもその隣で大人しくしている。見た目よりも話の分かる老人のようだ。と、安心しかけたのだが。
「まぁ、立ち話もなんだし、家の中へ入れ。孫の旦那になる男なら、それなりのもてなしもせにゃならん」
は?
思わず目が点になった。
そんな伊吹に対して老人はかかかと大笑する。
「コウジマの果実をもいで渡すっつーのは、我が家に代々伝わるプロポーズなんじゃ。女が受け取るか受け取らないかは、その返事になっとる。受け取るのは了承するって意味がある」
「代々って、お爺様の代で勝手に決めたんじゃありませんの。自分がそうしたからって」
はぁ!?
伊吹は思わずミルラを見た。ミルラは再び顔を赤くして、横を向いたまま伊吹と目をあわそうとしない。
謀ったな。
いや、伊吹が知らずにコウジマの果実をもいでしまったのだが、それにしても何故受け取る。
「ミルラ……」
「……だって、いきなり渡してくるんですもの!ついですわ、つい!」
ついで受け取るなよ。
「まー、知らんかったんじゃろうが、それはそれで中々運命的で良い」
良くねぇ。
「いや……ですが、私はこちらには何の土台も持たない、異世界人ですし。どういう人間かも分からない相手に大切なお孫さんを任せても良いんですか」
「家柄だの身分だのに拘るような時代じゃ無いよ。家に必要なんは商才じゃね。その点あんたは中々見所があると思ってのー。宿屋建て直し計画、楽しみにしとるよ。軌道に乗りそうなら、いくらか用立てても良いとおもっとる」
……ぐらっと、きた。
ラクリエル商会との繋がりは、正直言って欲しいのだ。しかし、だ。
「ですが、ミルラさんのお気持ちも」
「そうじゃのう」
そうだろう。
老人は、黙っている孫娘の方へ視線を戻した。
「で、どうなんじゃ、ミルラ。わしの推薦したクリスティアン・ベルナ・ハーバーか、このイブキとどっちが良いんじゃ?」
二択かよ。
伊吹は頭を抱えたくなった。もうちょっと選択肢を増やしてくれ。
「勿論イブキですわ!」
きっぱり宣言されたところで嬉しくもない。選ばれた理由は、伊吹の好感度が高いからではなく、相手の好感度が最低値になっているからだ。
ギスニッチみたいな男、クリスティアン・ベルナ・ハーバー。
後に調べたところ、ギスニッチというのはエメラルド色に金の模様のやたら派手な小動物だった。見た目はやや胴体の長いビーバー。注釈として、女性関係が激しく複数の女性と同時に関係を持つような男に対して、この小動物の名前が使われる事があると記されていた。
この小動物、一夫多妻制らしい。




