伊吹、翻訳機を切望する 2
伊吹は元々体が丈夫な方ではない。少しの事で体調を崩すし、熱が出る。
それはこちらの世界に来ても変わる事無く、病弱な青年というイメージは保護施設の職員にも既に広まっていた。本来なら、この世界に馴染み生きていく為に、時期を見て異世界人は施設を出されることになるらしいのだが、伊吹の出所時期は幸い未定のままだ。
体の弱さを良かったと思えたのは、初めてのことかもしれない。
外でやっていく自信など無かったし、何よりこの施設や異世界人の扱いに対する疑問の答えを、まだ出せていない。
「イブキ、具合はどう?」
熱で腫れぼったい瞼を押し上げると、リチルの心配そうな顔があった。
「何か食べられそうですか?」
日本語、はリチルの後ろにいるリザレットから。一瞬、リチルが喋ったのかと驚いた。
「今は、ちょっと……」
「そうですか。水分だけは小まめにとってください。後で何か消化のようものを持ってこさせる」
「すみません」
「これも仕事ですから」
リザレットはいつも通り素っ気無く答える。伊吹が病人だからといって、労わろうという気はあまり無いようだ。リチルは布団の上から伊吹の胸の辺りをそっと撫で、優しく声をかけた。
「はやく、良くなってね」
思いやりに満ちた声。その声音はどこか懐かしく、母親を思い出させるもので、伊吹は固く目を閉じた。
もう、会えないのか。
病気の時は只でさえ酷く気弱になる。普段は意図的に触れないようにしている事実にうっかり触れてしまい、泣きたいような気持ちになった。父も母も、問題はまるで無かったとは言えないが、良い人たちだった。口うるさい、鬱陶しいと思う時もあったのに、今はその小言すら懐かしい。
もう二度と会えない。それどころか、伊吹の家族は伊吹の事を覚えてもいないのだ。吹雪のことも。吹雪の事を知っているのも、彼が死んだ事を知っているのも、今は伊吹だけなのだ。
嫌だ。
強く伊吹は思う。あんな風に死にたくない。誰にも省みられない死を迎えたくない。あんな、哀れで寂しい存在に成り下がるのだけは、嫌だった。
絶対に。
生きる為に、死なない為に、伊吹は自分の弱さを最大限に利用した。体の弱さもそうだったし、言葉についてもそうだった。実際よりも言語習得が遅れているように見せかけていた。言葉が理解できないと思っている相手には、自然と口が軽くなる。
伊吹は分からぬような顔をして耳をすまし、分からない言葉は記憶して、後でメモに残した。誰かが見ても分からないように日本語で、日記の中に紛れ込ませる。
「おはよう、イブキ。今日は良い天気よ!」
「おはよう、リチルさん」
食事を運んでくるリチルを笑顔で向かえ、伊吹は椅子から立ち上がる。メモを整理する間に誰かが来ても、伊吹は慌てる事はなかった。読まれたとしても、普通の日記にしか見えないようになっている。
縦読み万歳。
「何をしていたの?」
リチルが首を傾けて、机を指差す。伊吹は分からないふりをして、首を傾けた。
「えっと…何か、書いてた?勉強かな…」
何かを書くような真似をしたり、本を読む真似をしたりして、リチルは何とか言いたい事を伝えようと頑張る。そこで初めて、伊吹は分かったような顔をした。
「にっき」
「日記かぁ。毎日書いてるの?イブキは小まめに書きそうね…、変わった文字。イブキの世界の文字ね…ちょっと可愛い。イブキは偉いわね、私はいつも1週間も続かないの。日誌を毎日書くのも大変なのに」
今のところ、リチルが一番イブキに親しく接してくれる。その場、その場で思いついた事を述べる彼女は、あまり重要な情報は言わない。
それでも、イブキは慎重に彼女の言葉を吟味する。
(文字…可愛い……偉い、日誌…、日誌って何だ)
初めて聞く言葉だ。毎日書くものだという事と、日記から連想されるもの。大変だけど、やらなくてはいけないのだろう。仕事に関する事だ。毎日、仕事の内容を書き留めている、多分伊吹に関する事も。
「今日はね、伊吹の好きな白身の魚よ。香辛料がちょっときついかもしれないけど、美味しいからね」
リチルは伊吹に話しかけながら、部屋の中心にあるテーブルに、運んできた料理を手際よく並べていく。
「お待たせ、さ、こっちに来て。無理しないで、ゆっくり食べてね。また後で片付けに来るから」
いつも聞く言葉を繰返し、リチルは部屋を後にする。静かになった部屋で、伊吹は黙って椅子に座った。
湯気が上がるオレンジ色のどろりとしたスープ。焼いた白身魚が二切れ、濃い緑の野菜の炒め物に、柔らかく煮込んだリゾットのようなもの。それらを前に、伊吹は両手を合わせた。
「いただきます」
むこうでは然程気にしなかった挨拶を、こちらではきちんとするようになった。
何故だろう。
家に、家族と暮らしていた時でも、一人で食事をとる事は珍しくなかった。一人だろうが何だろうが、食事はとれる。寂しいとも思わない。慣れている。そもそも、大勢で食べると美味しいね、という感性は伊吹には無かった。
それでも、極力人を避けていたあの頃とは考えられないくらい、伊吹は社交的になったと思う。
見かけた人にはこちらの言葉で挨拶をし、話しかけられたら分からない顔をしながらも、頑張って聞き、答えようと努力する。疲れるが、必要な事だと思えばやれ無い事はない。それに、少し楽しくなってきてもいた。
伊吹の本質は何も変わっていない。
あちらにいた時も、こちらに来てからも。人を避けるのも、人と話そうとするのも、結局は他人を信用する事ができないからだ。
異世界、なんて、得体が知れない。
伊吹がそう思っているように、あちらも恐らくそう思っている事だろう。同じ世界の人間ですら、互いを受け入れることは難しいのだ。
(本当に、面倒な事になったな)
然程食欲が湧かぬまま、何とか半分ほど食べきったところで、伊吹はフォークを皿の上に置いた。
食べた後、リチルが食器を取りに来る前に、伊吹は散歩に出た。外へ出る際にも許可はいらない。自由に行き来が許されている。ただし、何が事情があって部屋にいて欲しい時は、ドアが開かない事もある。つまり、ドアが開く時は自由に動いて良い時なのだ。
部屋の中に監視カメラの存在は確認できなかったが、自分の行動は全て知られているだろうと伊吹は考えていた。許可を取らずに歩き回れるのは、その為だろう。
伊吹がどこで何をしているのか、常に把握できている、から。
「イブキ」
だから、散歩中にリザレットが現れても、伊吹は驚かなかった。
「あ、こんにちは、リザレットさん」
「今日は具合、良いようですね。何よりだ」
「はは…ありがとうございます」
リザレットの日本語は完璧だが、素っ気無い。敬語に男のような物言いが時々混ざる、独特な喋り方だ。
「何を見ていたのですか?」
「いや、この建物、随分大きいなと」
伊吹もお世話になっている、保護施設を眺めながら、伊吹は言う。世間話のように、軽く。
「異世界人って、そんなにたくさん来るものなんですか?」
「時には」
リザレットの言葉は簡潔だった。与える事を許されている情報。だが、聞かぬ限りは教えられる事のないもの。
「以前に話したと思いますが、場所によります。大勢の人がいるところで、大規模なものが発生した場合は。そうですね、歴史上最大規模のものでは、一度で85人という事がありました。既に118年ほど前の事になります。保護法はその20年後に作られました。その件があった為に、大人数を保護する事のできる建物が造られたのです」
「85人」
「そんな事は、滅多に起こらないが。近年では、11年前に16人という事故がありましたね」
気のせいか、リザレットの能面のような顔に、一瞬悲しみのようなものが見えた気がした。
「…大変ですね」
「ええ、お互いに」
リザレットの、温度のない鉱石のような瞳が伊吹に注がれる。その目が、伊吹は少々苦手だった。心の奥を見透かされているようで。
「他に質問は?」
迷ってから、結局聞くことにした。
「今回は、僕達だけですか?結構、人が周りにたくさんいたんですが」
「いいえ」
その答えに驚く。自分達以外にいた事よりも、それをリザレットが隠さなかった事に。
「いる、んですか」
「ええ。…その内に会えると思いますよ。貴方がここを出る事になれば、必ず。既にここを出て、町で暮らしながら異世界人の学校へ通っていますから」
な ん だ っ て
あまりの事実にちょっとばかり混乱した。




