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伊吹、翻訳機を切望する 1

 人と話す事を煩わしいと思ってきた伊吹だったが、ここにきて言葉の素晴らしさを実感している。意思疎通を図り、知らなければならない事を知る為に、言葉は必要不可欠なものだ。


 どうせなら、通訳する便利な機械や魔法なんてものがあれば良いのに。


 リザレットに聞いたところ、そんな便利なものはありませんとの事だった。まぁ、そうだろうとは思っていた。そうでなければ、わざわざ異世界語を習得しておく人間なんて必要ない。それでも、思う。こちらの世界の生活水準は中々高く、伊吹の知らぬ未知の技術がたくさん存在しているようだ。その上、魔法のようなファンタジー小説やゲームでしかお目にかかれないようなものまで存在している。らしい。


 その技術や不可思議な力を使って、翻訳機くらい作れないかな、と思うのだ。

 いや、むしろ作ってくれいますぐに。


 言語を習得するに相応しい期間は、大体10代前半くらいまでだったと伊吹は記憶している。頭はそこそこ悪くないつもりだが、年齢的には厳しそうな23歳。

 何より今更新しい言葉を覚えるとか、正直言って面倒くさい。

 しかし、いつまでもそんな事は言っていられないのだった。

 気分が悪い、体調が……とのらりくらり病人生活を続けて早一月とちょっと。確か38日目毎日一度は訊ねてくるリザレットにも、どこか苛立った様子が垣間見られるようになった。そろそろ、限界だろう。

 情報を集める為にも、言葉が必要だ。

 そう結論付けて、伊吹は言葉を覚える事にした。


 保護施設の中での生活は、非常に規則正しい。毎日決まった時間に、三度の食事が出される。おやつなんかは出ないが、運動量を考えれば出ないほうが良い。太るだけだ。毎朝ほぼ同じ時間に起き、同じ時間に眠る。する事が無いから、夜更かしなどしようもない。

 これまで外出は控えていたが、許可された場所までは自由に行き来ができる。図書室や、食堂、医療室、プールに、室内用の運動ルームなど。後はやたら広い庭だろうか。


 金かかってるなぁ、というのが伊吹の感想だった。


 この世界で異世界人はかなり手厚く保護されているようだ。何か理由があるのだろうか、保護して一体どんなメリットが、などと伊吹は考えてしまう。異世界の技術確保か?とにかく何か裏でもあるんじゃないか、と。

「あ、こんにちは、イブキ」

 住居施設と専用施設を繋ぐ連絡通路にて。透明な硝子越しに庭の景色を楽しんでいるところへ、通りかかった女性が伊吹に気付いて声をかける。

 いつも食事を運んで来てくれる施設の職員だ。

 明るい橙色の髪を3つのお団子にしている、小柄な女性だ。笑うとえくぼのできる、美人というよりは愛嬌のある顔で、人懐っこい。他の施設職員と比べて、積極的に声をかけてきてくれる。

「こんにちは、リチルさん」

「うん、中々良くなったわ。発音もキレイ。イブキは覚えが良いわね」

 リチルは満足そうに目を細めた。

 イブキが言葉を勉強していると聞いてから、彼女は前以上に話しかけてくるようになった。そして、発音や言葉遣いの訂正をしていく。


「でも、本当に良かった。イブキが元気になってくれて」

 まだ簡単な単語しか理解できないが、その辺りは雰囲気だ。

「ありがとう?」

「私は何にもしてないわ。それにしてもイブキは良い子ね、異世界人が皆イブキみたいだと助かるんだけど」

 笑顔を少しだけ翳らせて、リチルは言う。何を言っただろう。異世界人の事を言っていたようだが。

「あ、いけない。メニュー変更を報せてこないと、ごめんね、イブキ、もう行かなくちゃ。後で食事を持っていくから、部屋にいてね!」

 短いスカートを翻し、リチルは慌てた様子で去っていった。最後の方は早口過ぎて、何を言っているのかさっぱりだったが。


(何を言っていたんだ?)


 言葉をきちんと理解できないのが悔しい。もしかしたら、何か重要な事を言っていたのかもしれないのに。

「考えても仕方ないけど」

 伊吹は軽く溜息を吐いて、再び外へ目をやった。


 異世界人保護施設。


 異世界からやってきた人間を保護する事を目的とする施設であり、その為に異世界の言語を始めとする文化などを研究する機関でもある。

 と、リザレットから説明を受けている。

 変だと思うのは、性格が捻くれているせいなのか。異世界人保護、随分人道的な対応だと思う。博愛精神に満ちた民族性、文化なのか、勝手にやってきた違う世界の人間など、迫害の対象になってもおかしくないような気がするのだが。

 それにそもそも、異世界人が落ちてくるのは稀だという説明があった。数年に一人、二人程度。何年も来ない時もあるとか。それにしては。


 施設、広すぎだろ。


 働いている職員の数も多いようだし、部屋数も多い。

 もう一つの疑念の種は、立ち入りを禁止されている区画の存在だ。住居施設の左に位置する部分は、繋がっているのに壁で仕切られており、中から行き来する事ができないようになっている。別に入り口が存在していて、そこには常に監視の目があった。更に外から見て分かったのだが、左側の窓は青っぽい色をしていて、中を覗く事が出来ないようにしてあるのだ。

 あからさまに、怪しい。

 自分の警戒は当然のものだと伊吹は思う。何も分からない世界で、頼れるのは自分だけだ。

 散々優しい顔で騙しておいて、安心したところでガブリ…は、無いとは思うが、何かの生贄とか実験などに使われる事はあるかもしれない。そんなのは、ごめんだ。


 昼食の時間が終わり、1時間ほどするとリザレットがやって来た。伊吹に言葉を教える為だ。もう一人、ウィガーという無愛想な男がいるのだが、最近は忙しいらしく滅多に現れない。

 家業だという宿屋が繁盛しているのだろうか。

「イブキ、何か変わりはありませんか」

「特にありません。ちょっと食べ過ぎて、胸焼けがするくらいで」

 最初の会話はいつも大体こんな感じだった。実に事務的なやりとりとなった今だが、一時期はこれだけではすまなかった。

 体におかしいところはないか、異常な匂いを感じた事は無いか、いつもと違う職員を見なかったか、その他少しでも違和感を感じた事があったら言うように、と。こんな調子だった。


 何だったんだろうな、あれ。


 色々と考えつく事はあるが、どれも推測の域を出ない。分かるのは、多分伊吹は何者かに危害を加えられる可能性があった、という事だけだ。その事に気がついた為、伊吹は一時期食事を採らなかった。何か入れられているのかもしれない、そう考えたら気持ち悪くなってしまったのだ。

 結局は食欲には勝てなかったが。

「文字も覚えたいとこの間言っていましたね。だから今日は、私が参考に使用した単語帳と、子供向け絵本、それからこれをもってきました」

 丸められたA3サイズくらいの紙が広げられる。あいうえお表みたいなものが手書きで丁寧に書いてあった。こちらの文字と、それから発音がひらがなで記されている。

「これは、私の知人が勉強に使っていたものを参考に、作成させたものです」

「…ありがとう。凄く分かりやすい」

 小学生の時にこんなの見たな、と思いつつ、ありがたくもらっておく。

「言葉の勉強の方はどうですか」

「まだまだですね。簡単な挨拶くらいしか…やっぱり、この年で新しい言葉を覚えるのは難しいですね」

「貴方はまだ23歳だ…充分若いと思いますが」

 最初に保護された時の質問で、伊吹の情報はリザレットに知られている。

 身長、体重の測定に加え、身体検査、体力検査。病歴、学歴に家族構成、犯罪歴の有無、子どもの頃から今までの事をこと細かく聞きだされている。大学入試で一度失敗している事、更に出席日数が足りず留年している事まで。

 別に、知られて困るという程のことでは無いが、あまり気分の良いものでもなかった。


 最もしつこく聞かれたのは、この世界に来てしまった瞬間のことだ。

 どんな風に起こり、どんな気分、思いを感じたか。何度も何度も繰返し訊ねられた。

 世界喪失現象の研究の為だろうか。

「リザレットさんは、おいくつなんですか?」

 細い目が更に細くなる。

「三十路、というやつです」

 意外なような気もしたし、そうでもないような気もした。あっさりとした、特徴の無い顔立ち。皺が少ないつるりとした肌をしており、表情も薄い。老けているようにも、若いようにも見える不思議な顔だ。

「私が日本語を習得したのは25歳の頃でした」

 涼しい顔でリザレットが言うので、

「……頑張ります」

 と言う他無い。

 最も、異世界人と伊吹とでは、脳や成長に差があるのかもしれないという考えが浮かんだが、口にするのは止めた。


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