菊乃の奮闘 4
好きな事をしていて良い
菊乃はペンを握り締めたまま、その文字を凝視していた。
4日、いや丁度日付が変わる頃だから、5日目。部屋に篭りきってユーイに渡されたノートの訳がようやく終わった。最後の短い文を訳し終えた達成感も感じられないまま、菊乃はその言葉の意味を考える。
「……好きな事をしていて良い?何それ」
注意事項に触れない事なら、という事なのだろうが、そう言われても。途方にくれてしまう。
この家で一番偉いのはユーイだ。
だが、ジェレミーもマーサも遠慮なく彼に文句を言う。気安い関係のようだ。マーサはきっちりとした性格で、食事は常に決まった時間に用意をする。だが、そこに全員がそろう事は無かった。大抵はユーイが、時々ジェレミーの姿が無い。
ユーイはどうやら低血圧で、朝食にはまず来ない。太陽が大分昇りきってからようやく、起き出して来るのだ。
その日も例外ではなくて、食卓にユーイの姿は無かった。
彩り豊かな大盛りの野菜サラダに、ミルクの入った大きなオムレツ、切り分けたハム、それから野菜や果物を甘辛く煮込んでペースト状にしたもの(これはパンにつけて食べる)、ハチミツ入りのミルクが、今日の朝食のメニューだった。
「ユーイ様は、昨晩も随分遅かったようですが」
ちらり、とどこか冷たい視線をジェレミーに向けて、マーサは慎ましくサラダを取り分ける。
「また、悪い遊びに精を出しているわけでは無いでしょうね」
「マーサさんのご心配には及びませんよ。今度のはお仕事の一環ですから。少しばかり、趣味も担っているようですが、少なくともマーサさんの懸念するような事はありませんよ」
小さなパンにペーストをつけ、ちまちま食べていた菊乃の前に、大盛りサラダと分厚いハムが2切れものった皿をジェレミーは置いた。
食べろということだろうか。
見上げると、今日も完璧な笑顔があった。寝癖などない綺麗にセットされた髪に、一分の乱れもない服装。それがとても自然である事に、菊乃はいつも感心している。
「キクノはもう少し食べないと、大きくなれませんよ」
小さい子に向けるような事を言われた気がする。
日本人は若く見られることが多いらしいが、それはこちらの世界でも通じる事なのだろうか。出会った直後から不思議な程親切にしてくれるのは、もしかしたら年齢よりも大分幼く見られているせいなのかもしれない。
口の中のパンを飲み込んで、菊乃は隣のジェレミーを見上げた。
「私、じゅうしちです」
自己紹介に必要そうなものは、既に全部覚えている菊乃だった。ジェレミーは一瞬きょとんとした後、おかしそうに笑う。
「知ってますよ。資料にありましたから。さっきのは、ちょっとからかっただけです」
そうなんだ、と菊乃は納得する。よく考えたらそういうものかもしれない。ここで預かる以上は、菊乃がどういうものか、知っておく必要はあるだろう。
「ああ、ちなみに僕は25です」
大体予想通りの年齢だ。
ユーイの方が余程若く見えるが、ジェレミーがふけているわけではない。ユーイが若すぎるのだ。どう見ても31歳には見えない。菊乃より2つ3つ上くらいと言っても、充分通じる若々しい外見をしている。
この家から出られない菊乃が顔を合わせるのは、ユーイとジェレミー、マーサの3人だけだ。その中で唯一好意的に接してくれるのがジェレミーだった。
ユーイは殆ど無関心で、時折一方的に部屋へ来ては、何をしているのか確認してから去っていく。義務的な応答は、多分定期的にやらなくてはならない類のものなのだろう。
そして、マーサは多分菊乃の事を嫌っている。
自分を嫌っていると分かっている相手と話をするのは、結構疲れる。
しかし、菊乃にはどうしてもマーサと話をする必要があった。
いつものように空になった食器を手に、厨房へ入る。白いエプロンをかけ、せっせと洗い物をするマーサの姿がそこにあった。
「あの」
思い切って、その細い背中に声をかける。マーサは水を止めると、不審そうな顔で菊乃を振り返った。
「手伝い、します」
マーサの細い眉がぴくりと動く。
「結構です」
「……お願い、します。何か、何でも良いです」
「何故ですか。もしかして、ユーイ様からの言いつけですか?」
私はそんな事聞いていませんが、とマーサは不機嫌そうに呟く。疎ましがられている事は分かっていたが、ここで引き下がりたくない。
「あの、食べるなら、働く。働いてないなら、食べることは、できない」
働かざるもの食うべからず、と本当は言いたかった。多分通じなかったのだろう。マーサは不可解そうな顔で、首を横に振った。
「貴方は働く必要はありません。貴方をどうするか、その方針は全てユーイ様が決定する事です。ユーイ様が貴方に働けと言ったわけでは無いのですから」
「でも」
「お話がそれだけならもう良ろしいでしょうか。私は暇ではありません」
背を向けて洗い物を再開するマーサに、菊乃は何も言えなかった。言葉が出てこないのがもどかしい。もう少し自分の気持ちや考えを伝えられるように、整理してくれば良かった。
戦略ミスだ。
「おじゃま、しました」
これ以上ここにいても、仕方が無い。諦めて厨房を出た菊乃を、ジェレミーが待っていた。
「働きたいんですか、キクノは」
話を聞いていたらしい。面白がるような笑みが浮かんでいる。
「だったら、ユーイ様に直接頼んでみたらどうですか?」
それは、最もな助言だった。
菊乃とて、最初はそうしようと思っていた。だが、ユーイときたら、同じ屋敷にいるにも関わらず、どこにいるのか分からないのだ。まず、彼の特定の部屋というものがない。空いている部屋は全部彼のものという感覚らしく、毎日気分が向いた時に好きな部屋を自分の部屋にしている。
晩に必ず一度、菊乃の様子を見に来るものの、一方的な質問をした後さっさと部屋を出て行ってしまう。
何とか引き止めて用件を言おうとはしたが、『発音がおかしい、言いなおせ』『そこは違う』『文法が変だ』『意味が繋がらない』『それで、結局何が言いたいんだ?』と、手厳しく。
「ユーイさん、むずかしい」
無表情で菊乃がぽつりと漏らすと、ジェレミーは大笑いした。
「中々的確な表現だ。でも、それなら余計に、今日はチャンスだと思いますよ。応接室に、ウィガーさんが来ていますから」
最後に別れた日から、まだ1週間程度しか経っていないが、物凄く懐かしい名前を聞いた気がした。もう滅多に会えないだろうと、勝手に思い込んでいたからだろうか。
まだ寝ているらしいユーイを待つウィガーは、応接室にいた。
いつも通り気難しげに眉間に皺を寄せ、四角いソファーに座り腕を組んでいる。入ってきた菊乃達に気がつくと、一瞬だけ驚いたように目を見張り立ち上がった。
「こんにちは、ごぶさたです、ウィガーさん」
「ああ、久しぶりだな、キクノ。元気だったか?」
交わされる挨拶は日本語では無いが、懐かしい。菊乃はこくりと頷いた。
「お前はしっかりしているし、心配はないだろうが。ここで暮らすのは大変だろう。色々と」
「おや、人聞きの悪い。他よりは、この上なく安全だと思いますが」
「………違う意味で安全じゃないだろう。その手が既に疚しい」
ジェレミーの腕はごく自然な感じで、菊乃の肩にまわされていた。最初の日こそ、手を繋がれたりしたものの、ここへ来てからは一定の節度を保ってジェレミーは菊乃と接している。多分、これはウィガーをからかっているのだろう。
冷静に分析中の菊乃に対して、ウィガーは深く溜息を吐いた。
「お前はお前で、手のかかる」
「?」
次の言葉は日本語で。
「その男はこう見えてかなり節操が無いからな。外見と外面が良いから寄ってくる女が多いのも事実だが、それにしても、だ。寄ってくる者は多少えり好みするようだが、基本的に拒まない。おまけに珍しいものに目が無いから、お前は特に」
「僕に分からないように、悪口を吹き込むのはやめてください」
ウィガーの言葉を遮るように、ジェレミーは菊乃の耳を両手で塞いだ。ぼわん、とした音が鳴る。
「全く。前から言っていますが、噂の半分以上は事実じゃありませんよ。付き合った女性の数が少なくなかったのは認めますけど」
「少なくなかったどころじゃないだろ。お前と、ユーイは」
「というか、ウィガーが堅すぎると思うんですが」
「俺は普通だ」
「いい加減不毛な片思いに見切りをつけて、新しい恋でもした方が良いですよ。見ていて痛々しい…、あ、これはユーイ様が言っていたことですから」
「俺のいないところで何を話しているんだ、お前達は!」
ウィガーは苦りきった表情でジェレミーを睨みつける。耳を塞がれている上、早口過ぎて、菊乃には二人のやりとりが全く聞き取れない。
ただぼんやりと、気安いやり取りを眺めるだけだ。
「例の新居候の女の子とのやりとりが面白いとか、何だかんだ言いつつ気が合いそうだ、とかですかね。最近は」
「他人事だと思って無責任に面白がるな。というか、あいつはそれでここのところ毎日、毎日来ていたのか!」
「ウィガーさんにもようやく新しい春が来たようで、良かったですね」
「やめてくれ。俺にも相手を選ぶ権利はある」
耳を塞ぐジェレミーの両手がそっと緩む。隙間から、はっきりとした音が耳に届いた。
「良いじゃないですか、異世界人でも。そんなに嫌いなんですか?」
「嫌いというか、苦手だな。何を考えているか、理解できん」
キクノは相変わらずぼんやりとしていた。本当は驚いて、どう反応して良いのか分からずに、固まっていただけだったが。
問題は、異世界人が苦手だというウィガーの言葉ではなく、意図的に聞かせたとしか思えないジェレミーの行動だ。




