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菊乃の奮闘 3

 広い玄関ホールで待ち構えていたのは、白いブラウスに、紺色のロングスカートに白いエプロン姿の年配の女性だった。痩せており、いかにも厳しい雰囲気を漂わせる女性で、菊乃は自然と背筋を伸ばした。


「随分と遅かったですね、ジェレミーさん」


 細い目が冷ややかにジェレミーを見つめる。

「お待たせしてしまい、申し訳ありません。お叱りは後できっちり頂戴します。とりあえず、彼女の紹介を。キクノ」

 怒っているらしい女性に対して、ジェレミーは動じない。促されるまま、菊乃は挨拶を繰り返す。

「菊乃、坂巻です。よろしくお願いします」

 冷ややかな視線が菊乃に移った。長い鼻の下にある薄い唇の口角が、思い切り下がっている。不機嫌そうに鼻を鳴らして、女性は口を開いた。

「少しは話せるようなのは結構です。私はマーサ。この屋敷の家事全般の一切を任されております。ユーイ様が書庫にて貴方を待っていらっしゃいます。ジェレミー、すぐにお連れしなさい」

「はい。承りました。さぁ、行こう、キクノ」


 入って右側の3番目の扉は長い廊下へと続いていた。かつかつと、歩くたびに足音が響く。床は落ち着いた焦げ茶色の木で、良く磨かれているのかつるつると光っていた。

 左右に並ぶいくつものドア。この広い屋敷を掃除するのは、とても大変そうだ。

 やがて一つのドアの前で、ジェレミーが足を止めた。

 両開きの木のドアで、百合に似た花の彫り物が施してあった。ジェレミーがノックをする前に、中から声がする。


「さっさと入れ」


 聞き覚えのある声だ。ジェレミーが扉を開け、中に入るように促す。菊乃は躊躇いながら中へ入った。

「しつれい、します」

 一面の壁は本で隙間無く埋まっていた。中央に頑丈そうな作りの木の机が一つ置かれていて、そこにユーイは座っていた。読んでいたらしい本を机に置いて、立ち上がる。

「随分遅かったな」

「マーサにも叱られましたよ」

 ジェレミーが苦笑する。

 ユーイは何だか凄い服を着ていた。フリフリだ。袖口と襟元が白い大き目のフリルになっていて、腕の辺りが大きく膨らんだブラウスに、左右にボタンが3つづつ並んだ、赤いぴちっとした感じのズボン。先の尖ったロングブーツ。

 それが、何故か似あってしまっているのが凄い。

「ようこそ、キクノ。歓迎する」

 ちっとも歓迎する気がないような態度だった。

「あ、はい。しばらくお世話になります。よろしくお願いします」

「お世話はしない。だから、自分の事は自分でするように。ああ、食事と洗濯はマーサがやるが。面倒事は起こすなよ」

 にっこりと、笑顔でユーイ・ユーイは言う。聞き取りやすい口調と速さで話してくれたおかげで、何となく理解する事ができた。

 世話はしないから、自分の事は自分でする、それから…食事と洗濯は、マーサという人がやってくれる。

「理解できたか?」

「はい」

「良いだろう。後、いくつか注意しておく。勝手に門の外に出る事は許さない…、自由にしていいのは敷地内の中だけだ。赤いドアノブがついているドアは開けるな。来客中は部屋から出るな、特に客が女の場合は絶対に出て来るな。屋敷の中のものを勝手に動かす事も許さない」

 矢継ぎ早に禁止事項を言い渡されて、菊乃は固まってしまった。驚いたわけではなくて、何とか理解しようと頭をフル回転させていたからだ。

 それでも、半分くらいは聞き逃してしまった。

「あの……」

「文句は聞かない。それから後の注意事項とかもまとめて書いておいたから、ちゃんと読むように」

 そう言って赤い表紙のノートを手渡された。

「ジェレミー、キクノを部屋に案内しろ」

「はい。では、行きましょうかキクノ。ついて来てください」

「は、はい。おねがいします。しつれいします」

 嵐のようなユーイとの面会は数分で終了した。菊乃達が部屋を出る際には既に、ユーイは本を読み始めていた。


「部屋は2階になります。階段は屋敷の両端とホールにありますが、基本的にはホールの方から上がってください」

 ゆっくり歩くジェレミーの半歩後を、菊乃は大人しくついていく。

 階段を上がり、右側の廊下。階段側から3番目が菊乃に与えられた部屋だった。

 一人で住むには充分すぎる広さがあった。正面の左端にシンプルなデザインの木のベッドと、サイドテーブル。大きな窓を挟んで机と椅子、空の本棚。右側の壁に姿見、クローゼット付きのタンスと化粧台。壁には腰板が張ってあり、壁紙はごく薄い緑色に白い草花模様だ。

 左側の壁にはドアが二つついており、一つはトイレ、もう一つはお風呂だった。

「服は一通り揃えておきました。気に入ってもらえると良いですが」

 ジェレミーがクローゼットを開けて見せる。可愛らしいワンピースや、少し大人っぽいフォーマルなワンピースなどが6着ほど。それからタンスの引き出しの中にもシャツやブラウス、スカートが。靴や靴下まであるようだ。

「他に必要なものはありますか?」

「あ、の」

 菊乃は冷や汗をかいていた。

 朝から戸惑ってばかりだ。この良すぎる対応が一番怖い。何かを試されているのだろうか、それとも何かの実験なのか。

「私、お金は…」

「ああ、お金の心配はいりませんよ。異世界人には支度金と、独り立ちするまでの数年間は補助金が……ああ、つまり簡単に言うと、キクノを預かることで、その分のお金はもらっています、と。分かりますか?」

 そういえば、以前にリザレットがそんな話をしていた。だが、そんなに沢山お金が支給されるものなのか。

「そんなわけですので、必要な物があれば遠慮なく、僕に言ってください」

「ジェレミーさん、に?」

「はい。僕がキクノの代わりに買ってきますから。ちなみに僕の部屋はこの部屋の隣です」

 外へ出てはいけない。だから、だ。充分すぎるほど物が揃えてあるのも、その為なのだろう。菊乃は変に納得した。


 食事の時間に呼びに来ますと言って、ジェレミーは菊乃を残し部屋を出て行った。肩の力を抜き、ほっと息を吐く。ジェレミーは親切なのだが、その親切を素直に受け取れない自分が何だか嫌だった。

 広すぎる部屋を一度見渡してから、持ってきた荷物をもくもくと片付け始める。

 それが終わると机の前に座り、自作の辞書を片手にユーイから渡された注意書きの解読に取り掛かった。全部で20ページもある。1行読むのも難しい。ここにはいつものように教えてくれるウィガーもリザレットもいないのだ。

 しかし、菊乃は嬉しかった。やる事が何も無いよりは、熱中できる事がある方が良い。


 そうすれば、余計な事を考えずにすむ。




 丁度、マーサが置いていった茶に手を出しているところに、ジェレミーが戻って来た。ユーイは入ってきたジェレミーを見ること無く、本に視線を落としていた。

「どんな様子だ?」

「戸惑ってはいますが、思ったよりも落ち着いた感じでしたね。大人しいし、従順で、少し可哀想になります。ああいう子は何ていうか、庇護欲をそそられますよ」

「ジェレミー。分かっているとは思うが、悪い癖は出すなよ」

「冗談ですよ。半分は」

 ジェレミーはおかしそうに笑う。ユーイは溜息をついた。

「相変わらず、変な趣味だな。“敵対者”である可能性がある女を」

「だからこそ面白いと思うんですよ。あんなにか弱くて、大人しい只の少女を、皆が警戒し恐れているところも含めて」

「姿形は関係ない。キクノはあの異世界人に助けられなければ『事故死』していた筈だ」

 こちらの世界に落ちた途端、不慮の事故……溺れたり、崖から落ちたり、獣に襲われたりして命を落とす異世界人は少なくない。確か今回も一人死んだと聞いている。

「だが、キクノは幸運にも生き延びた。敵対者には奇跡が纏わり付く…その上、彼女を助けたのがよりにもよって異世界人となれば、警戒されて当然だろう。おまけに、当の本人が妙に落ち着いているし」

 ユーイは面白く無さそうに鼻を鳴らす。

「泣いたり喚いたりすれば、少しは周りの人間も安心しただろうに。知ってるか、ジェレミー。キクノはこちらへ来てまだ一度も泣いていない」

「意外ですね。泣き喚く女は鬱陶しい、といつもは言っているじゃないですか」

「時と場合に依るだろう。世界と、家族やら友達やら、今までの人生の全てと切り離されたんだぞ。普通は、ウィガーのとこにいる娘のように泣き喚くとか、まだ保護施設にいる男のように現実を受け入れられずに寝込むとかなるだろう。特にキクノみたいな若い女は」

 控えめなキクノの様子を思い出す。懸命にジェレミーの言葉を理解しようとしていたキクノに、ジェレミーは好感を持った。そこには言葉も何も分からない場所で家族や友人と切り離され、辛さや不安を抱えているだろうに、という推測が前提にある。

「なるほど。通常泣き喚くべき場面で、泣かず、取り乱さないから逆に怪しまれた、というわけですか」

「そういう事だ。実際、キクノが何を思っているのかはどうでも良い。それが見えないから周りの者は不安になる」

 厄介なんだ、そういうヤツは。

 ユーイは物憂げに溜息を吐いた。


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