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菊乃の奮闘 2

 ユーイ・ユーイはそれから菊乃を引き取る日まで、1度も来なかった。

 忙しいのか、興味が無いのか、忘れられているのか。

 少なくとも菊乃にとって、その1週間は短かった。言葉の聞き取りも、話すほうも、読み書きも自信が無い。ユーイ・ユーイのところには、日本語を理解する人がいないというし、リザレットもウィガーも今のように教える事はできなくなると言っていた。

 今の内に、少しでも多くの言葉を覚えなければ。

 菊乃はすぐに辞書を作ることを思いついた。ウィガーとリザレットに協力してもらい、日常会話に必要な挨拶や使える言い回しを、まずこちらの文字で書いてもらう。その下にカタカナで発音を書き、更に意味を付け加える。思いつく限りのものをとにかく書いていった。まとめるのは、後でもできる。

 それから単語。こちらはこの世界の子供用の辞書を一つ貰いうけ、そこに直接意味と発音を書き込んだ。絵つきだから、分かりやすい。

 毎日ひたすら聞いて書いて聞いて書いて書いて。どうにか施設を出る日に間に合わせる事ができた。

 やりとげた。

 そんな清清しい気持ちで、出立の朝を迎える。菊乃は見送りに出てくれたリザレットとウィガーの二人に深々とお辞儀をした。

「おかげさまで、完成です。ほんとうにありがとうございました。お二人、には、とても感謝しています」

 ほんの少しつっかえながら、早速練習した言葉を述べる。

 今日も何か悩み事を抱えているような様子のウィガーだったが、菊乃の言葉に笑顔を見せた。それにちょっと吃驚する。ウィガーはいつも難しそうな、困ったような顔をしている事が多くて、笑った顔はとても貴重だ。

「いや、そこまで感謝されるほどの事はしていない。それが完成したのは、お前が頑張ったからだ」

「お二人がたくさん、助けてくれました」

「仕事ですから」

 リザレットは素っ気無く言うと、ほんの少しだけ笑った。

「貴方の頑張りは認めます。ここを出た後も大変でしょうが、その調子で頑張ってください」

「ありがとうございます。がんばります」

 少しでも感謝の気持ちが伝わるように、菊乃は深々と二人に頭を下げた。


「何をしているのですか?」


 ウィガーでもリザレットでもない、耳障りの良い低音の男性の声に、菊乃は頭を上げた。声の主は、菊乃達から数歩離れた位置で彼らを不思議そうに眺めていた。

「ジェレミー、お前が来たのか」

「家の先生が出向くわけないでしょう。妙齢の女性が相手ならともかく」

 そう言って肩を竦めるのは、温和そうでありながら、非常に色気のある男性だった。

 長身で、すらっと足が長く、均整の取れた体つきをしている。鮮やかな金髪の長さは顎にかかるくらい。前髪は右に流し、残りを耳の後ろにかけている。その為露になった左耳に赤いピアスが光っていた。くっきりとした二重で、目の色は灰がかった青。程よく肉厚の唇の左端に黒子があった。

 視線を感じたのか、ウィガーの方に向いていた灰青の瞳が、菊乃に向けられる。

「彼女、ですね」

「ああ…名前は」

 ウィガーを制して、青年は菊乃に一歩近寄った。

「僕はジェレミー・ニス・ホークと言います。ユーイの使いで、貴方をお迎えに上がりました。貴方のお名前を伺ってもよろしいですか?」

「……私は、キクノ・サカマキといいます。よろしくお願いします」

 頭を下げると、ジェレミーは目を丸くした。

「彼女の国の挨拶だ。そうやって礼を示す」

「ああ、なるほど。さっきのあれもそういうわけですか。僕はてっきりウィガー達がいたいけな少女を虐めているところに遭遇したのかと、焦りましたよ」

「お前達と一緒にするな」

 打ち解けた様子でやり取りする二人を、菊乃は黙ってみていた。早い口調で聞き取りは難しいが、頭を下げるという行為が一般的でないという事は分かった。これからは気をつけよう。

「さて、あまり遅くなるとうちの先生が煩いですから、そろそろ行きましょうか」

「はい」

 菊乃が持っていた二つの鞄のうち、制服や、こちらで揃えた衣服、本などが入った大きな鞄をジェレミーが持った。そちらは、ともう一方の鞄も持とうかと訊ねられたが、菊乃は丁寧に断った。これは、あちらから持ってきた教科書の入った学校指定の鞄だ。

「キクノ、あまり無理はするなよ。体には気をつけておけ。元気でな」

 先にウィガーが。

「自分の身の上を忘れず、慎重に行動をするように。それでは、お元気で。幸運を祈ります」

 次にリザレットが別れの言葉を日本語で述べる。

「今までお世話になりました。さようなら、お元気で」

 やはり、慣れた言葉の方がちゃんと気持ちが込められる。それが、別れの挨拶となった。二人に見送られて、菊乃はジェレミーについて歩き出した。


 施設の外を歩くのは、勿論初めてのことだった。中にいる時は景色を楽しむ余裕も無かったから、町をちゃんと眺める事も今が初めてだ。

 全体的に暖色系…それが最初の印象だった。

 オレンジや、ピンク系統の屋根が目立つ。壁の色は白よりもクリーム色や、薄いレモンの色が多いようだ。舗装された道はアスファルトではなく、敷き詰められた赤褐色のタイルのようなもので、継ぎ目の引っ掛かりがなかった。

 道は広めに設計されていて、歩道と車道に分かれている。車道の真ん中に一本オレンジ色の細い道が通っていて、車道自体も二つに分かれているらしかった。その上を行きかうのは馬や馬車といったものから、大きなトカゲのような生き物。更には少し宙に浮いたボードのようなものまで。とりあえず車は無いようだ。

 一番驚いたのは魔法の絨毯のように、上の方を飛んでいる長方形の板に乗った人々だった。

 ついつい見上げてしまう菊乃を、ジェレミーは笑った。

「あんまり上に気を取られていると、転んでしまうよ」

「…なに、ですか?」

「転ぶから、危ないよって言ったんですよ。うーん、分からないかな?ああ、そうだこうすれば良い」

 ジェレミーはにこりと笑うと、空いている方の手で菊乃の左手を捕まえた。

「!」

「これなら、はぐれないし、転ばない。安心ですね」

 そこでようやく、菊乃はジェレミーの言いたい事を理解した。

「だ、大丈夫です。気をつけます。手、いりません」

「遠慮はしないでください。あ、後、妙な下心などはありませんのでご安心を。ただ、君に何かあったら大変ですから」

 手を繋いだまま歩き出すジェレミーに、菊乃は困惑した。何を考えているのだろう。ジェレミーは最初から菊乃に友好的で、その事が菊乃の頭を混乱させる。


 菊乃は異世界人だ。

 それも、只の異世界人ではなく、何だかよくは分からないが、この世界にとって良くないかもしれない異世界人なのだ。

 最後は色々と良くしてくれたウィガーも、最初は必要以上に関わらないようにしていたし、リザレットなどは最後まで菊乃の様子を見極めようとしていた。施設の職員も、菊乃に近寄ろうともしなかった。


 それなのに、このジェレミーという人は……。


 単に人が好いのだろうか。

 初対面で気に入られたのだと思えるほど、菊乃は自惚れていなかった。際立って美しいわけでも、可愛いわけでも無いし、性格も愛想が無いとか愛嬌がないとか良く言われたものだ。

「俯いていないで、今の内に良く見ておくと良いですよ」

 考え込んでいた菊乃は、ジェレミーの顔を見上げた。

 彼は相変わらず柔らかい笑顔を菊乃に向けている。そこに、更に菊乃を困惑させるものがあった。

「屋敷についてしまったら、きっと貴方は暫く自由に外へ出してもらえないでしょうから。下手をすれば、一生こんな風に外を歩けないかもしれない」

 彼の言葉は生憎と菊乃には通じなかったが、哀しげな、哀れむようなジェレミーの目は、これからの事を予感させるのに十分なものだった。


 菊乃を気遣ってか、ゆっくり1時間ほどかけて、ジェレミーは目的地に彼女を案内した。

 ユーイ・ユーイの家は街の中心部より少し外れた、小高い丘の上にあった。立派な門と赤茶の高い壁に囲まれた広大な敷地。遠くから見たら四角い箱にしか見えなかった。


 門の前に立っていた、鈍い色の鎧みたいなものを身につけていた男が、ジェレミーを見つけて頭を下げる。

「お帰りなさいませ、ジェレミー様」

「ただいま。この子がユーイが言っていた例の女の子です。覚えておいてください」

 大きくがっしりした体躯はいかにも強そうだ。四角ばった顔に、鋭い三白眼、引き結ばれた唇は大きい。

「菊乃・坂巻です。よろしく、おねがいします」

 下げそうになった頭を何とか押し留める。返事は無かった。門番はジェレミーの方へ向き直り、了解しましたとだけ短く告げた。

「キクノ、おいで」

 ジェレミーに促されるまま、菊乃は敷地の中に足を踏み入れた。


 これからいったい、どうなるのだろう。


 魔女の屋敷にうっかり足を踏み入れてしまったような心境だった。

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