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菊乃の懸念

 呼吸、体温、心音に異常は見られない。脳波なども調べてみたが、正常だ。ただ、眠り続けている異常。

 ユーイ・ユーイは苛々した面持ちで、安らかに眠る菊乃を見下ろした。揺さぶって、起こしてやりたい気持ちがじわじわと湧いてくる。いや、実は一度……二度程実際に実行した。「起きろ!」と怒鳴って肩を揺さぶったりしてみたが、結果は見ての通り。

 これが男だったなら、引っ叩くところだ。最も、それでも起きないだろう。


 精神的に疲弊した状態で、目覚めることを菊乃が拒否している。


 それが、ユーイのたどり着いた結論だった。彼女に起こった様々なことを思えば、無理もないと思える。この先のことを思えば、このまま眠っていたほうが彼女のためにも良いかもしれないと、一瞬でも考えてしまった自分に腹が立つ。

(甘い考えに流されんな)

 ユーイは菊乃個人の事ではなく、この国の、世界の利益を考えなければならない立場だ。この世界に忍び寄る、未知なる脅威。敵対者、それからその背後にいるかもしれないもの。それらに対抗する術を持つ人々は貴重だ。

 例え、それが菊乃の命を縮めることになったとしても。

 ユーイは坂巻菊乃の不幸を思う。たった一人、家族と切り離されて異世界に来て、わけの分からない力を得て、利用されようとしている少女。

 哀れに思っても、してやれる事は何もない。

 ユーイには、哀れむ資格すらないのかもしれなかった。


 厳しい表情で菊乃を見下ろすユーイに何かを思ったのか、ジェレミーが密やかな声で彼の名を呼んだ。返事の代わりに視線を向ければ、真面目な顔で口を開く。


「やはりここはあれしかないのでは」


 あれ?

 この弟子との付き合いは長いが、未だに時々何を考えているのか分からない時がある。今が正にそれだった。

「あれって何だ」

 ついでに何の事を言っている。

「前に読んだ小説ですけど、眠り続けている姫は、運命の王子の口付けで目覚めると、そういう物語でした」

「……お前、まさかそれを実行しようとか」

「確か、あの話は彼女の世界に伝わる古い話ですからね。試してみる価値はあると思いますよ」

「ねーよ!」

 真面目な顔で何を言っているんだ。

 冗談なのか、本気なのか。分からないだけに性質が悪い。呼吸が止まっているわけでもなし、口付けして起きるとかどういう理屈なのか。


 理解に苦しむ。


「……ジェレミー」

「何でしょうか」

「お前、暫くこの部屋に立ち入り禁止だ」

 不満げな顔をされたが、妥当な判断だと思う。ジェレミーは少々菊乃に対して近づきすぎている。気に入りの娘くらいで留まっているなら良いが、本格的に好意を持たれるのは厄介だ。

 何せジェレミーはしつこい。

 博愛傾向にあって、滅多に特別を作らないが、気に入るものが出来るととことん構う傾向にある。気に入りの家具、動物、文房具。今のところそこまでのめり込んだ人はいないが、出来たら多分厄介だ。

 万が一にでも、菊乃に対してそういう思いを抱かないようにしなくては。

 今後に支障をきたすだろうし、何より菊乃が気の毒だ。


(あれはどうも、何か厄介なものに好かれる性質な気がする)


 必要以上に様子を見に来るユリウス(真面目に仕事をしてんのか)といい、厄介ごとの塊のようなハイネスが、菊乃の様子のみに反応することといい。ついでに、ケラスの変態異世界研究者のジャンナも、「キクノちゃん、キクノちゃん」と煩い。

 まぁ、あれは貴重な研究対象としての意味だろう。

 それからハルラック・エジ。

 ユーイからしてみれば、彼が一番不可解な存在だった。無口で大人しい異世界人。菊乃が来るまでは、目だった問題を起こすこともなかった。

 だが、彼は確実に何かを隠している。それも、恐らくは菊乃に関わる事柄で。

 最初に菊乃を助けた事は本当に偶然だったのか、その疑問はユーイの中で再び大きくなっていた。

(全く、どいつここいつも……)

 菊乃の立場を考えれば、眠っている今が一番平和で幸せな時かもしれない。そう考えて、ユーイは複雑な溜息をはいた。



***


 目の前で、ドアが閉められる。

 その向こうに幸せそうな家族の団欒があった。快活に笑う綺麗な母と、優しげで穏やかな父。間に挟まれた高校生の娘もにこにこ明るく笑っている。オレンジの暖かい光の下で、美味しそうな手料理が並べられていた。今日は私も手伝ったんだよ、そう主張する娘に、両親は目元を緩ませる。

 弾けるような笑い声。

 幸せな風景。

 そこに、菊乃の入る余地は無い。


 小さく吐いた息が白い。


 そこは暗くて寒かった。瞬きをするとドアが消える。暖かい光も見えなくなった。暗闇の中で菊乃は目を閉じる。右も左も分からない。浮いているような、落ちて行っているような。

「……言えば良かった」

 ぽつりと後悔の言葉が出て来る。

 私も手伝うって。

 言えていたら、あの家族の一員でいられただろうか。簡単なたった一言。ぎこちなく、だけど仲良く寄り添う母と新しい妹の後姿を見ていたら、それがどうしても言えなくて。勝手に距離を感じてしまったのだ。

 もう二度と、やり直す事はできない。

 誰も頼る相手のいない未知の世界で、菊乃は生きていかなくてはいけなかった。


 再び目を開けると、新たなドアが見えた。


 その向こうに何があるのか、今度は見えなかった。何があるのか、何が起こるのか分からない。だからいつも怖かった。

 今も怖い。

 でも行かなくてはいけなかった。自分のした事の結果を見るために。菊乃はゆっくりとドアに手を伸ばした。

「行くの」

 唐突に響いた甲高い声に、菊乃はびくりと肩を揺らす。振り返るが、闇が広がるばかりだ。

「どうして、ずっとここにいても良いのに」

 暗闇の中、声だけが響く。大人のような、子どものような。ただ女性の声だということだけははっきりしていた。

「誰?」

「折角守ってあげたのに。ここにいればずっと守ってあげられるのに」

 菊乃の疑問には答えずに、声は囁く。

「外に行けばまた傷つくのに。悪戯に命を縮めるだけなのに。人は、どうして自分の命を大切にしないの。こんなに脆くて儚いのに」

 耳元を風が通り過ぎる。

 振り返れば、ドアが開いていた。広がる光が闇を浸食していく。


「もう呼ばないで。私は貴方を殺したく無い」



 目覚めてすぐは、ぼうっとしていた。

 先程まで見ていたような気がする夢すら思い出せなかった。

 頭の中に白いもやがかかっているようで、はっきりとものが考えられない。熱があるのかもしれなかった。何だか頭が痛い。体はだるく、喉が渇いてひりひりしていた。名前を呼ばれたのでそちらを見る。心配そうにこちらを見下ろす、飴色の瞳があった。

 ハルラックさん。

 そう呼ぼうとしたけれど、咳き込んでしまって声にならなかった。

「これを飲んで」

 細いチューブのついた液体入りのパックを差し出される。中身は何かよく分からなかったが、果物のような甘味と喉のすっとするすっきりした喉越しの飲み物で、幾分か喉が楽になった。咳止めとかだろうか。

「…あ、りがと…」

 酷い声だった。

「無理に声を出さない方が良い。喉を痛めているようだ」

 ハルラックは憂うような眼差しを菊乃に向けた。

「念の為に医者を呼んでくる」

 そう言って出て行ったが、彼の帰りを待つ事無く菊乃は再び眠ってしまった。次に目が覚めたのは、その半日後のことだった。

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