菊乃の窮地 8
「キクノ」
紙のように白い顔で、意識を失った彼女の名前を、思わず呼んでいた。責めるような獣の瞳と視線がぶつかる。
数秒の沈黙の後、ハルラックは何も言わずに背を向けた。背中の少女が落ちないように、ゆっくりと歩を進め、去っていく。くたりとした少女の手が、その動きにあわせて力なく揺れる。血の気の失せた唇から、目が離せなかった。
危険な状態である事は一目で分かった。恐らく、長くはもたない。そう考えた途端、奈落に突き落とされたような気分に陥った。
何故。
先程から、まともに思考が働かないことに疑問を覚える。
人が死ぬ事など、珍しくも無いことだ。昔から、ハイネスの周りには死が溢れていた。母も、教会の育ての親も、故郷の人々も。異世界人対策本部ケラスに入ってからは、命令によって自ら誰かの命を奪ってきた事も少なくない。
それに対して、特に思うところもなかった。
ハイネスにとって唯一意味のある存在は、ルーミケラウスだけだ。
他の人間の事など、どうでも良かった筈だ。
特に、異世界人など。
「ハイネ……」
弱々しい声が、自失していた彼の意識を呼び戻した。黒に近い紫の瞳がうっすらと開かれ、ハイネスを見上げていた。
「貴方も、そんな顔をするようになったのね」
そんな顔とは何の事か、ハイネスには分からない。
「……ルー?」
「懐かしい呼ばれ方ね」
力なく、ルーミケラウスは微笑んだ。
「行って。あの獣が走れないのは、背中の子を振り落としてしまうから。貴方が支えてあげれば、もっと早く走れる。……貴方にも、分かる筈よ。あの子は、長く持たない」
長くは持たない、その言葉にハイネスは眉を顰めた。そんな弟を、ルーミケラウスは弱々しく微笑みながら、じっと見つめる。
「あの子を失ったら駄目よ。貴方は、私のようにならないで」
「それ以上、喋るな」
苦しげな息を吐いて、ルーミケラウスはハイネスを睨んだ。
「姉さんの、最期の言葉くらい、聞きなさい。行って、あの子を助けるの。それで、貴方を許してあげる」
「……ルー」
「貴方の言う通りよ。私、きっと貴方を憎んでた。でも、ちゃんと愛してもいたの。たった一人の、弟だもの。それだけは、信じて。ほんと……駄目な姉だったわ……ごめんなさい」
「貴方が俺に謝ることなど、無い」
小さく、口の端を上げると、そこから息が漏れた。
「一回じゃ、足りないくらいよ。でも、これで許して。……さぁ、もう行ってハイネス」
力ない腕に押されて、ハイネスは立ち上がった。
顔を上げると、まだ視認できる場所に黒い獣の姿が見えた。その背に乗せられた少女の姿も。胸に湧いた焦燥感に気がつき、戸惑った。
(俺は、彼女を失いたくないと思っているのか)
答えの出ない、不確かな感情に突き動かされるように、足を踏み出す。突き詰めて考えたい事は多々あったが、考えている時間はなかった。
一瞬生じた躊躇いを振り切り、ハイネスは走り出した。
***
走り去るハイネスの背中を見送る。無事に黒い獣と合流し、去っていくところまで見届けて、目を閉じた。
気温は徐々に下がってきている。
じきにもっと冷え込むだろう。その前に、ここから立ち去りたかった。下手をすれば、町からケラスの奴らがやって来るかもしれない。
十分に時間を置いてから、ルーミケラウスは起き上がった。
あちこち痛いし、吐き気はするし、気分は最悪だ。死ななかっただけ、マシかもしれない。いや、本当にそうだろうか。
「本当に、ごめんねハイネ」
この場にいない弟に謝罪する。勿論届くことはないが、所詮こんなのはただの自己満足だ。謝られたところで、許したくないことなんて山ほどある。
「あー、でも少し安心したわ。このまま一生独り身で生きていくつもりなのかと思ってたし。折角見た目良く生まれたんだから、ちょっとは楽しめば良いのに」
何であんなに不器用で頑ななんだろう。
(私の弟とは思えないわ)
育て方を間違えただろうか。そんな事を思って、苦笑する。ろくに育てもしなかったくせに、偉そうなことを考えてしまった。
(憎んでいる、か)
まさか、見抜かれているなんて思わなかった。誰にもとてもいえない、醜い感情。大切だと思う反面、疎ましくて。こいつさえいなければ、そんな風に何度も思った。けれど、彼を失えば、自分を必要としてくれる人は誰もいなくなる。
(愛も、憎しみも)
結局は、自分の事ばかりだ。
ハイネスが赤子の時は、流石に教会の人が世話をしていた。本当に、必要最低限のことしかしてくれなかったが。おかげで彼は生きて大人になれたのだ。
昔はそんな風にすら、考えることができなかった。
捨てられたんだって、そればかり。世界の全てを憎み、恨んでいた。今だって、少しそういう部分は残っている。
「ごめんね」
無意識に出てきた言葉は、誰に当てたものなのか自分にも分からなかった。細かく地面が揺れているのに気がついて、ルーミケラウスは顔を上げた。
揺れにあわせて、砂が流れていく。
離れた場所で砂が大きく盛り上がる。ずるずると、砂を払い落としながら、下から銀色の大きな船が現れた。砂が入らぬように張ってあったシールドが消えると、船の先に人影がいるのが見えた。
長い亜麻色の髪を靡かせた小柄な女性が、こちらに向かって大きく手を振る。
それに向かって、ルーミケラウスは軽く手を振り替えした。
「ちょっと遅いわよ、ナナミ」
「仕方無いよ、こっちはこっちでちょっと問題があって」
「どうせ、フブキでしょ。もう大丈夫なのね?」
「まぁ、何とか。そっちの話も聞きたいけど、詳しい話は後で。とりあえず船に乗って、見つかったらマズイよ」
「はいはい」
ルーミケラウスは、船からおろされた梯子に足を掛けた。
ここが本当の彼女の居場所だ。
帰ってきた、そんな風に思えるところ。
あの居心地の良い宿屋でも、この世に唯1人の弟のところでも、胸糞悪いシュターク教派のところでもなくて。
信じるものの為に、戦える場所だった。




