菊乃の窮地 7
何かを選べば、何かを失う。
誰かが自分の名前を呼んでいる。
酷く怒って叫んでいる声も聞こえる。何を言っているかまでは分からない。全部の音がとても遠く聞こえた。目を開けると、もっと不思議だった。全てが淡い虹色の影みたいに見えた。人も、地面も、空も。交じり合っている。
良く見れば、少しずつ色が違っていて、辛うじて区別がつく。
そんな中に、ぽつんと黒い染みみたいなものが蠢いていた。
じわじわと伸縮を繰り返すそれは、酷く気持ちが悪くて、不快なものに思えた。
何か怖い。
そう怯える心に、何かが囁く。
大丈夫、もうすぐに還してしまうから。
その誰かの言葉通り、黒い染みはどんどん小さくなっている。逃れようとするように、激しく伸縮しながら、溶けていく。
もう少しで全部消えてなくなる、その時だった。
強い衝撃が肩に当たり、景色がぐるんと反転する。続いて、背中に衝撃があって、頭が揺れた。目が回る。気持ちが悪い。細かい泡のようなものが、目の前を飛んでいく。それが眩しくて、菊乃は強く目を閉じた。
「……すぐに止めろ。ルーミケラウスを殺すつもりか」
真上から降ってきた低い声に、菊乃ははっと目を開いた。
頬を擽る、銀の髪。すぐ近くにある怒りを湛えた紫の瞳に、瞠目する。近い。ハイネスに両肩を抑えられ、上からのしかかるような形で顔を覗きこまれている。
その状況に、混乱した。
どうしてこんな事になっているのだろう。今までは何をしていたのか、全く思い出せない。
「ハイネス、さん?」
掠れた声がでた。喋ると、ぴりっとした痛みが全身を貫く。どうしてだろう、酷くだるい。呼吸をする事すら、苦しいくらいだ。
ハイネスは、混乱する菊乃から腕を離して身を起こした。急いでどこかへ向うハイネスを、ぼんやりと視線で追う。起き上がる気力すら湧いてこない。
「ルーミケラウス!しっかりしろ、ルー!」
初めて聞くような、焦燥に駆られたハイネスの声。
ルーミケラウス。
膝を付く彼の向こうに、倒れている黒髪の女性が見えた。
『キクノ、大丈夫か』
視界の右から、黒い影が現れる。手で触れられない代わりに、湿った鼻先で無事を確かめるかのようにそっと頬に触れられた。
「ハルラック、さん…わた、し」
『何も喋るな、負担がかかる』
低い声が耳を擽る。
『……すまない。止めるべきだったのに』
何を。
殺すつもりか、そう言ったハイネスの言葉を思い出す。
(私、が?)
背筋が冷えた。覚えていないのに、知っている。自分がしたこと、その結果を。
ハイネスはこちらに背を向けて、ぐったりとしたルーミケラウスに必死に呼びかけている。投げ出されたしなやかな腕は、ぴくりとも動かない。ぎゅっと心臓が縮んだ。
ハイネスを助けたかった。死んで欲しくなかった。
だから、ルーミケラウスを?
違う、そうじゃない。
そんなつもりはなくて、ただ……、ただ?
『キクノ?』
助けたかった、だけで
ハイネスは、生きている。
それなら、良い。望みは叶っている。憎まれても、恨まれても。
(良い筈なのに、寂しい……)
きっと、ハイネスは菊乃を許さないだろう。彼にとって、唯一の姉であるルーミケラウスを、もう少しで死なせてしまうところだったのだから。
どんな理由があったところで、事実は変わらない。
冷たい胸の痛みから意識を反らして、菊乃はその体を起こそうと腕に力を入れた。
『キクノ、無理をするな』
ハルラックが焦ったような声を上げる。
「ダメ、おきないと……助け、ないと」
少しでも体を動かすと、鈍い痛みが全身を駆け巡った。全身がいきなり酷い筋肉痛になったかのようだ。それでも何とか耐えて起き上がろうとする菊乃を、ハルラックが鼻先で押し戻した。痛い。
「離して」
『駄目だ。今の自分の状態を分かっていない。女神の力を行使することは、並みの人間には大きな負担となる。特に、君の体には適していない……命を削る行為だ』
適していない、のか。だからここまで体が痛むのだろうか。
『無理をすれば、死んでしまう』
死ぬのは怖い。でも、今は。
「ハルラックさん、お願いします」
こちらを見下ろす黄金色の瞳を見つめて嘆願する。暫くの沈黙の後、ハルラックは折れた。黙ったまま、前足を器用に背中と地面の間に差し込み、起き上がる手助けをしてくれる。
「ありがとうございます」
いつも、いつも彼には助けられてばかりだ。
『………本当なら』
呻くような低い声で彼は言った。
『首根っこを引きずってでも、今すぐ病院に連れて行きたいところだ』
ぎしぎし痛む体を引きずって、ハイネス達がいる岩場の影へと急ぐ。
地面に横たわったルーミケラウスの様子を看るハイネスは、近づく気配に気がつき顔を上げた。鋭い視線を菊乃に向けて、威嚇する。
「それ以上、近づくな」
後、1メートルほどの距離のところで、菊乃は足を止めた。
「ルーミケラウスさん、ハイネスさんと同じだと言いましたね?だったら、できると思います」
「……何を言っている?」
言葉で説明するよりは、やって見せた方が早い。そう思って、菊乃は小さく息を吸った。
イメージして、自分の中のものを引きずり出す。
暖かく柔らかい水の気配を感じる。
「!」
次の瞬間、横たわるルーミケラウスの体は、丸い水の塊の中にあった。息ができなくなると大変なので、顔だけは水の外に出しておく。
ハイネスの時は、これでうまく言った筈だ。あの時ハルラックは言っていた。この水にはミリニエルの加護があると。傷を癒すとか、そんな風に言っていた。青の血、というものの意味を未だはっきりと理解しているわけではないが、青の血にもこの水は良く効くとか、そんな事も言っていた気がする。
現にハイネスは、あんなに酷い怪我だったにも関わらず治ってしまった。
だから、きっと。
眩暈に耐えながら、水を維持する。
菊乃の意図を理解したのか、ハイネスも何も言わなかった。ただ、いつもよりも更に硬い表情で、水に包まれたルーミケラウスの様子を見守っている。
祈るような気持ちで待つが、一向に変化の無いまま、時間だけが過ぎていく。
1秒、1分がとてつもなく長く感じた。
どれだけの時間が過ぎたのかは分からないが、徐々に手足から力が抜けていくのが分かった。気を抜くと倒れてしまいそうで、歯を食いしばって耐える。
『キクノ、もう止めろ。これ以上は無理だ』
そんなことない。
菊乃は小さく、何度も首を横に振った。頑なな態度を取る菊乃に、ハルラックは溜息を吐いた。
『……恨むなら、俺を恨め』
濁る意識の中で、そんな言葉を聞く。理解する前に、獣の前足で足を払われた。もう殆ど力の入らない足は、簡単に崩れる。バランスを崩し倒れる菊乃の体を、ハルラックの背中が受け止めた。
菊乃が意識を反らしたことで、溜まっていた水が一気に広がった。音を立てて、乾いた砂地に流れていく。水を一気に吸収した白い砂は暗い色に染まった。
ルーミケラウスは動かない。
もう、一度
ハルラックの背中から、何とか起き上がろうとするが、もうそんな力は残されていなかった。視界が白く濁っていく。誰かが自分の名を呼んだ気がしたが、それ以上意識を繋ぎとめておく事はできなかった。




