菊乃の窮地 6
遠くへ行こうと思っていた。
誰にも見つからないほど遠く。すこしづつ、自分の意識が侵食されていく。怯える気持ちも徐々に削られていくようだった。
こんな風だったのか。
大好きだった、優しかった人の事を思い出すと、ほんの少しだけ自分が戻ってくるような気がする。
遠くへ。
彼も行こうとしていた。遠ざけられたのは、嫌われたせいではない。きっと、助けようとしていたのだと、今ならば信じられる。
幸福な夢を見たのは一瞬で、意識は再び塗りつぶされる。暗い、冷たい感情に胸が締め付けられた。凶暴な気持ちになったかと思えば、次の瞬間孤独と不安に押しつぶされそうになる。
寂しい、寂しい、寂しい。
1人は嫌、1人にしないで。
誰か。
儘なら無い自分の感情を持て余す。聞いていた以上に、進行が早い。1日、抑制剤を飲まなかっただけで。
こんな風に、感情に振り回されるのは不快だった。苛々と爪を噛む。
人に制御できる程度の力へと変えたのだと、教えられていた。他の人がどうかは知らないが、ルーミケラウスは信じていない。異世界人が神の遣いだとも思っていないし、そもそも神がいるとも思っていなかった。
シュターク教派にいたのは、ごく個人的な願いの為。
そして、敵対者の核を受け入れたのは、かつて愛していた人への贖罪の為だった。
***
前を歩くハイネスから一定の距離を取って、菊乃とハルラックは歩き続けていた。
どれだけ時間が経ったか分からない。
高いところにあった日が徐々に傾いて、今は砂の海に沈もうとしている。少なくとも、5、6時間は歩き続けているかもしれない。幸い、水は出せるので水分補給はできているが、食事は取れていない。
その上歩き続けているから、もう足が棒のようになっていた。今にも倒れてしまいそうなところを、歯を食いしばってついていく。
ここで菊乃が倒れたとしても、彼はそのままどこかへ去ってしまうだろう。
決して、足を止めることなく。
こちらを振り向こうとしない背中に、彼の怒りの深さが透けて見えているような気がしていた。
助けたかったのは、お前じゃない
その言葉が、耳の奥にくっついて離れない。
今彼は、菊乃を助けてしまった事を後悔しているかもしれない。
冷えた瞳の奥に根付いている、暗い憎悪。
自分がどれだけ勝手な事を言っているのか分かっているつもりだ。
一刻も早く、姿を消した身内を探しに行きたいだろうところを、こうして邪魔して。誰にもいて欲しく無いだろう場所へ、同行しようとしている。
人の顔色を窺うようにして生きてきた。
今までの菊乃なら、決してそんな真似はしなかっただろう。誰かの邪魔になるくらいなら、嫌われるくらいなら、心が疑問を唱えていても黙っている。余計な波風はできる限り立てたくない。
しかしそんな風に流されていたら、決して望む事は叶わない。
嫌われても、憎まれても、ここで最後になるよりずっと良い。ハイネスを1人で行かせてしまったら、きっとずっと後悔する。
だから。
『来たぞ』
それまで黙っていたハルラックが、初めて口を開いた。低く唸るような声を上げて、菊乃の前に立った。ハイネスが足を止める。沈みかけた赤い夕日に染まった砂の上を、ふらふらと歩く女の姿が見えた。
ルーミケラウスだ。
焦点の定まらぬ瞳がこちらを見た。足が止まる。長い黒髪をその体に纏わりつかせ、ぼんやりと立つ。昨晩とはまるで違う、頼りない姿に戸惑う。
敵対者。
恐ろしいものだと聞いていたのに、何故かその姿は途方に暮れた迷子のような、寂しげなものに見えた。
「……ルーミケラウス」
労わるような優しい声で名を呼んで、ハイネスが足を踏み出す。まるでそれを恐れるように、ルーミケラウスは首を横に振った。
姿勢を低くし、警戒するように唸るハルラックを一瞥し、ハイネスが釘を刺す。
「余計な手出しはするな。俺がやる」
『武器も持たずどうするつもりだ』
それには答えずハイネスは、後ずさるルーミケラウスに近づいていった。
「来ないで」
何かを耐えるかのような、弱々しく震える声が言う。
「押し留めておく事は、もう限界なの。分かるでしょ。流石の私も、弟を殺したく無いのよ。だから、助けてあげたのに」
「そうか?俺を殺しかけたのも、貴方だったと思ったが」
「そうしなかったら、組織の人間が貴方を殺していた筈よ。助ける為に、そうしたの。ちゃんと、餌もあげたでしょう?」
ルーミケラウスの熱に浮かされたような赤紫の瞳が、菊乃とハルラックを不思議そうに眺める。
「何故生きているの」
餌とは、自分たちの事なのか。
その意味に気がついて愕然とした。
「ルーミケラウス」
「触らないで!」
伸ばされた腕を、振り払う。一瞬で異様に伸びた爪が、ハイネスの手を傷つけた。飛び散る鮮血が、乾いた砂地に染みを残す。
「ハイネスさん!」
思わず足を踏み出したが、ハイネスの鋭い視線に押し留められた。
「……何故耐える?貴方はずっと、俺を憎んでいた筈だ」
「何、言ってるのよ」
「俺が貴方から母を奪った。父も、他の家族も、親族も。教会で、誰からも振り向かれず生きる事になったのは、全て俺が生まれたせいだ」
「……違うわ、私にもあの力はある」
「俺ほど強くは無い。それくらいの力を持つ者ならば、他にもいた。彼らは普通に、村に受け入れられて生活していた」
ぶるぶると、不自然なほど揺れる白い腕で、ルーミケラウスは自分の両肩を抱いた。何かから身を守るように。
「俺が生まれなければ、幸せに暮らせていた筈だ」
淡々と、語られる言葉に、胸が締め付けられる。
「憎めば良い。貴方にはその権利がある」
「やめて。私はそんな風に思っていない。貴方は私のたった一人の弟、もう貴方しかいないのに」
「弟だからと言って、許さなくて良い」
「……やめて」
「自分の中の憎悪を認めろ、ルーミケラウス」
あの時と同じだ。
自暴自棄になっていた菊乃を、海辺に連れて行った時と同じ。我慢せず、心の中に溜め込んでいるものを吐き出せと、彼は言った。
同じ、だとしたら。
ハイネスは、ずっとルーミケラウスに、たった一人の実の姉にすら、憎まれていたことになる。事実は分からないが、少なくともハイネスはずっとそう思っていたに違いない。
どんな気持ちで。
「ハイネスがいなかったら……?駄目よ、そんな風に言ったらヤガセが怒るわ。約束もした。貴方はたった一人の、弟なんだから、私が守らないと」
ぼそぼそと、力の無い声が言う。
「いないと駄目なの。1人になるわ、貴方がいなくなったら、もう誰も。みーんな、いなくなっちゃったんだから。どうして分かってくれないの。殺しちゃ駄目、殺したら、守るから、大丈夫よ」
「もう良い、ルーミケラウス。例えどんな風に思われていても、俺は貴方を助ける。この力は、きっとその為のものだ」
『……お前まさか』
驚いたように、ハルラックが声を上げた。ハイネスは答えず、苦しむように胸を押さえ、蹲っているルーミケラウスにゆっくりと手を伸ばした。
『敵対者の力を吸収するつもりなのか』
それがどういう事なのか、菊乃には分からなかった。
ただハルラックの声音から、不吉なものを予感して、不安な気持ちでハイネスを見つめる。彼は壊れ物を扱うかのように、ルーミケラウスの肩に触れた。
小さく震える彼女の肩を励ますように撫で、背中に手を下ろす。丁度半ば辺りで手を止めると、ルーミケラウスの体が大きく震えた。
「う、が、ああ…っ」
苦しげに身を捻り、呻く彼女を地面に押し付けるようにして、ハイネスは背中に当てた手を固定する。
硬く目を閉じ、眉間に皺を寄せ、何かに耐えるかのように歯を食いしばったハイネスの額に、汗が滲む。
低く喉を鳴らしながら、ハルラックが足を踏み出す。
「ハルラックさん?」
『……行かないと。止めるべきだ』
緊張した声で、ハルラックが囁いた。
『敵対者の力は毒だ。例え青の血族であろうとも、変容は避けられない。万が一2つの力が合わされば、最悪な結果になる。……どちらにしても、彼は死ぬだろう』
死ぬ?
どくん、と胸の奥で何かが脈打つ。
そんなのは嫌、強く思う心に応えるように眠っていたものが目を覚ます。




